
引っ越したばかりの部屋は、きれいだった。駅近、築浅、家賃も相場より少し安い。唯一の難点は、寝室のクローゼットがやけに大きいことだった。奥行きが深く、扉の取っ手だけが妙に冷たい。
最初の夜、寝返りのたびに「すっ」と布が擦れる音がした。風だろう、と自分に言い聞かせた。だが二日目、クローゼットの前だけ床が湿っているのに気づいた。水をこぼした覚えはない。雑巾で拭いても、翌朝また同じ場所が黒く湿っている。
気味が悪くて、会社の同僚・槙田に笑い話として言ったら、彼は顔色を変えた。
「それ、クローゼットに棲む女じゃない?」
冗談にしては真剣だった。
槙田は言った。ネットのどこかに、短い文章がある。その文章を読んだ人のクローゼットに、女が“住む”。最初は音だけ。次に湿り気。最後に――扉が、内側から開く。
俺は鼻で笑った。ところがその夜、スマホに見知らぬメッセージが届いた。
『知らないなら、知らないままでいろ』
送信者は登録していない番号。続けて、画像が一枚。スクショのような白い背景に、短い文章が並んでいた。縦書き。句読点が妙に少ない。
読まなければいい。そう思ったのに、指が勝手に拡大した。文字が滲むほど近づいて、最初の一行が目に入った。
――クローゼットは、向こう側につながっている。
そこまで読んだ瞬間、部屋のどこかで「こつ」と鳴った。金属ではない。乾いた骨みたいな音。クローゼットの取っ手が、ほんの一ミリだけ下がって戻る。
俺は慌てて画面を閉じ、スマホをベッドに投げた。心臓がうるさい。音を誤魔化すみたいに、クローゼットの奥から「とん、とん」と軽い足音がする。
いや、足音じゃない。指先で板を叩く音だ。
翌朝、槙田に電話した。彼は沈黙したあと、低い声で言った。
「見たの? 文章」
「最初の一行だけだ」
「……終わった」
槙田は、都市伝説には“版”があると言った。文章はひとつじゃない。誰かが少しずつ言葉を変えて増やしていく。まるで感染を広げるために、最適化されているみたいに。
「どの版を見たかで、女のやり方が違うんだ。湿るとか、影が増えるとか、名前を呼ばれるとか……」
その日の帰り、俺は管理会社に連絡しようと決めた。だが会社のロビーで、また知らない番号からメッセージが来た。
『一行は一行 読んだのは読んだ』
『扉を開けるな 扉を閉めろ』
意味が逆だ、と混乱した瞬間、背後で誰かが小さく笑った気がした。振り返っても、誰もいない。
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