
五年ほど前の話になる。
金曜の朝、まだ始発が出る前の時間帯だった。午前五時少し過ぎ。オフィス街の大きなターミナル駅は、夜勤明けらしい人と早朝出勤の人がぽつぽついるだけで、妙に静まり返っていた。
地下三階の環状線ホームへ向かうエスカレーターに乗ったとき、突然、手首を掴まれた。
「そのカバン、危ないですよ」
振り向くと、清掃員の制服を着た老人が一段下に立っていた。日に焼けた顔で、皺が深い。目だけが妙に澄んでいたのを覚えている。
「革のやつでしょう。肩に掛けてる」
当時、父の古いビジネスバッグを使っていた。何度も修理した跡がある、黒い革のものだ。
「手放した方がいい。良くないことが起きます」
酔っている感じはなかった。声も落ち着いていた。ただ、感情がまったく乗っていなかった。
怖くなって、足を速めた。だが、ゴム長靴の足音が背後についてきた。
「毎日見てる。あんた、ここを通るだろ」
ホームに降りて列に並ぶと、老人は柱の陰に立ち、じっとこちらを見ていた。電車が入ってきた瞬間、また近づいてきた。
「今日中に処分しなさい」
周囲の目が気になり、無理やり車内に入った。ドアが閉まる直前、老人が何か叫んでいたが、聞き取れなかった。
その日は仕事にならなかった。
翌朝も、同じ場所に老人は立っていた。
「まだ持ってるな」
無視して改札へ向かうと、背後で声がした。
「革はな、吸い込む。持ち主だけじゃない。通り過ぎたものも、落ちたものも」
意味が分からず振り返ると、老人はわたしの目をまっすぐ見た。
「溜まるんだ。溢れたら、誰かが受け取る」
声は静かだったが、妙に確信に満ちていた。
さすがに耐えられず、改札の駅員に事情を話した。
「清掃員の方に付きまとわれていて」
駅員は首を傾げた。
「この時間に制服の清掃員はいません。清掃は深夜に終わっています」
そう言われた直後、ホームの奥で悲鳴が上がった。
「誰か落ちた!」
わたしは列の後方にいたはずだ。だが、気づいたときには事務室のソファに寝かされていた。立ちくらみを起こしたらしい、と説明された。
飛び込んだ人の身元は、その場では分からなかった。目撃者はいたが、誰もはっきり見ていないと言っていた。
家に帰り、ドアを閉めてようやく落ち着いた。壁に立てかけてある父のバッグが目に入った。
数年前に亡くなった父が、仕事で使っていたものだ。捨てられず、ときどき持ち出していた。
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