
これは、誰にも話していない出来事です。
文章にするのも正直ためらいましたが、書かずにいると、自分の中で何かがずっと引っかかったままになる気がして、ここに残します。
あの日、私は会社に一人で残っていました。
残業というより、片付けです。資料の確認やログの整理で、特別な作業ではありません。いつものことでした。
時間は夕方だったと思います。
外はまだ明るく、窓の外には普通の街の音がありました。怖さを感じるような雰囲気ではありませんでした。
ただ、一つだけ気づいたことがありました。
非常階段につながるドアが、少しだけ開いていました。
閉め忘れだろうと思いました。
これまでも何度かありましたし、珍しいことではありません。
廊下は静かで、空調の音だけがしていました。
それでも、なぜかそのドアから目を離せませんでした。
頭の中で理由を探しました。
点検の人が来ているのかもしれない。
設備の確認で出入りしたのだろう。
そう考えると、落ち着きました。
その直後、背後に人の気配を感じました。
振り向く前に、頭の中で姿を作っていました。
作業服を着た人。
道具を持った人。
会社の関係者。
振り返ると、名札を下げた男性が立っていました。
落ち着いた服装で、年齢ははっきりしませんが、社会人らしい雰囲気でした。
その瞬間、私は安心していました。
名札がある。
態度が穏やか。
声が静か。
それだけで、危険ではないと判断していました。
男性は静かな声で言いました。
「少し確認したいことがありまして」
それだけでした。
乱暴な言い方でもなく、違和感のある口調でもありませんでした。
私は、普通に受け答えをしていました。
男性は仕事の話をしてきました。
専門的な言葉も混じっていて、詳しそうでした。
私は完全に、関係者だと思い込んでいました。
途中で、少しだけ引っかかることがありました。
聞かれる内容が、私個人の行動や時間帯にまで及んでいたことです。
私は答えるのをやめました。
それ以上は話せない、と伝えました。
男性は表情を変えず、こう言いました。
「大丈夫です。今、あなたが何を考えているかは分かっています」
その言葉で、体が固まりました。
私は何も口にしていませんでした。
けれど確かに、頭の中では、最悪の想像をしていました。
男性は続けました。
「人は、納得できる説明があると、それを選びますから」
その瞬間、はっきりと怖くなりました。
それでも、私は動けませんでした。
名札がある。
落ち着いている。
声を荒げない。
後日談:
- この出来事からしばらくして、社内で簡単な注意喚起がありました。 入退室管理の見直しと、名札の扱いについてです。 特別な騒ぎにはなりませんでした。 あくまで「可能性があった」という扱いでした。 私は、その場で何も言いませんでした。 自分が遭遇した話をしても、説明がつきすぎてしまう気がしたからです。 それから、会社に残る時間が短くなりました。 意識して帰るようにしたわけではありません。 気づくと、そうなっていました。 ある日、昼休みに社内ポータルを見ていて、ふと目に留まったものがあります。 入館ログの仕様変更についての告知でした。 変更点の説明は淡々としていて、技術的な話だけが並んでいました。 その中に、一文だけ、引っかかる表現がありました。 「従来のログでは、想定外の通過が記録されない場合がありました」 それ以上の説明はありませんでした。 その瞬間、あの夕方のことを思い出しました。 非常階段のドア。 名札。 自然すぎる立ち位置。 私は、あの日、ログを整理していました。 そのログが、何を記録していて、何を記録していなかったのか。 そのときは、深く考えませんでした。 今は、考えてしまいます。 もし、記録に残らない動きがあったとしても、 それに気づくかどうかは、人の判断に委ねられているということです。 名札があれば、関係者だと思う。 落ち着いていれば、危険ではないと思う。 説明があれば、納得する。 ルールの外にあるのは、例外ではなく、 「そう判断しなかったもの」なのだと。 最近、非常階段のドアは、いつも閉まっています。 開いているのを見たことはありません。 それでも、廊下を歩くとき、 ふと背後を意識する瞬間があります。 何かがいる気配ではありません。 誰かが立っている気がするわけでもありません。 ただ、 自分がまた、安心できる理由を探し始めていないか。 それだけが、気になります。 説明がついた瞬間が、 一番危ないのだと知ってしまったからです。
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