私の住むマンションは、静かな住宅街に佇んでいる。近隣にも家族が住んでいるが、互いの生活に干渉することはめったにない。特に、隣に住むおばあさんは、いつも静かに部屋に閉じこもっている印象があった。彼女の存在は、あまりにも穏やかすぎて、私の中での彼女の実体はぼんやりとした影のようだった。
ある日、私は偶然、彼女の部屋の前で立ち止まり、耳を澄ました。微かに聞こえる、何かが囁いているような音。だが、ドアの向こうには誰もいないのだろう、いつも通りの静寂が続いていた。私はその音を無視しようとしたが、次第に気になり始めた。
その翌日、私は隣の部屋に聞いてみた。すると、住人は「彼女は数年前から姿を見ていない」と言った。私は思わず、耳を疑った。ずっと彼女がいると思っていたのに、実際は誰もが彼女の存在を忘れ去っている。
次の晩、私は再びその音を聞いた。今度ははっきりとした声に聞こえた。「助けて…」というか細い声だった。私は震えながらもドアをノックしたが、返事はなかった。
しばらくして、警察がやって来た。おばあさんの部屋は空っぽで、誰もいないはずだった。だが、彼女が住んでいた痕跡は消えていなかった。部屋には古びた家具と、かすかに残る香水の香り。
その後、彼女が本当に存在したのか、私の記憶の中での彼女の影はどこかへ消えてしまった。
誰も悪くなかった。ただ、あの日の空気が違っていた。
私は今でも、時々その囁きの声を思い出す。
思い出そうとすると、少しだけ胸が痛くなる。
怖いのは、“何があったか”より、“何も言わなかったこと”だ。私たちは、彼女のことを知っていたのに、誰一人として声を上げなかったのだ。
今も静かな街には、誰かの声が埋もれているのかもしれない。
それに気づかないまま、私たちは日々を過ごしている。
後日談：
- 事件の後、私は隣の住人たちと少しずつ顔を合わせるようになった。その中で、話題に上がるのはいつもおばあさんのことだった。彼女が姿を消した理由を探ることは、まるで私たち自身の無関心を暴くような行為だった。 「実は、彼女が病気だったのを知っていた」と告白する住人もいた。だが、誰もそのことを他の人に伝えなかった。ついには、その存在はただの噂に過ぎなくなり、私たちはおばあさんのことを思い出すことすらためらった。 この経験から、私は心の中に一つの疑問を抱えるようになった。人の心の中に潜む、言葉にできない恐怖とは何なのか。それは、誰かを助けることができるのに、助けない自分自身への恐れだったのかもしれない。 そして、その静かな住宅街には、今もなお、誰かの声を聞こうとしない私たちが住んでいる。私たちは、知らず知らずのうちに、他人の沈黙を受け入れているのかもしれない。 それが、最も怖いことなのだ。 私の心には、今でもおばあさんの囁きが残っている。彼女の存在が消えた理由を知りたくてたまらない。だが、明確な答えはどこにもない。私たちの中に埋もれた恐怖は、いつまでも解決されないまま、静かに息を潜めているのだ。 そう、私たちのすぐそばには、もしかしたら誰かが助けを求めているのかもしれない。 だが、その声に耳を傾ける勇気を持っている人が、果たしてどれほどいるのだろうか。 それが私の恐怖となり、今でも心の奥に静かにひそんでいる。 私たちは、何を見過ごしているのか。 その答えを求めて、私は今日も静かな街を歩き続ける。 彼女の声が、どこかで私を呼んでいるような気がしてならない。
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