
新着 長編
名札のある階段
志那羽尾岩子 3日前
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。
私は――
私は階段の中央で固まった。息を吸うことすら、胸の奥のどこかに抵抗されているようだった。上から降りてくる濡れた足跡が、私から見える最後の一段まで来た。誰かが立っている。だが足だけが見えた。膝から上が、照明の明滅に合わせて黒く沈み、形を見せなかった。
扉の向こうでは、幼い声がゆっくりと重なりながら、こちらの呼吸に合わせるように揺れていた。返して、と。何度も、音の厚みを増しながら。
私は、どちらを向いても吸い込まれるような圧に挟まれ、どう動けばいいか判断できなかった。こんなふうに身体の境目が曖昧になる感覚は、生まれて初めてだった。
階段上の影が、ゆっくり一段降りた。濡れた足裏が階段を踏む音が、まるで私の骨の内側で鳴ったように感じた。髪の根元がじり、と逆立つ。
その瞬間、扉の覗き窓の向こうで、何かがぬるりと動いた。黒が動くのではなく、光のほうが沈んでいくような動きだった。暗闇に指が数本触れた気配があった。ガラスの向こうで、子どもの手のひらほどの大きさの、白いものがゆらめいた。
私は覚悟を決め、一歩だけ横に跳ねた。階段と扉のどちらにも身を預けず、踊り場の狭い影に寄った。そこで、急に鼻を突く鉄の匂いが強くなり、視界が揺れた。
次の瞬間、扉がぱんと開いた。
中は完全な闇ではなかった。薄い青白い光が、床いっぱいの水面に揺れていた。その中央に、白い布の固まりが浮かんでいた。子どものワイシャツ。私が抱えていたはずのもの。いや、抱えた覚えのあるもの。
ワイシャツはゆっくりと沈んでいき、そのたびに水面が不自然なほど静かに波紋を広げた。水面の下に、もうひとつ、白い何かが揺れた。それは小さな肩の形に見えた。水に沈む速度が妙に均質で、生きた身体の動きではあり得なかった。
私は後ずさった。上の階の影が、階段をまた一段降りた。照明の明滅が偶然重なり、その影の輪郭が一瞬だけくっきり浮いた。見えたのは、頭ではなかった。肩の位置ほどの高さに、白い丸が浮いていた。顔ではなく、削り出されたような白い球体。音のない口が、そこに開いていた。
私は限界まで息を吸い込み、階段を駆け下りた。だが降りるたびに同じ踊り場へ戻る現象が再び起こり始めた。何度も、何度も、同じ壁に行き当たり、同じ湿気を踏み、同じ匂いを吸い込んだ。視界が滲み、壁の汚れの形が歪んでいく。
そこに、聞き慣れない音が混じった。かすかな鈴のような高音だ。建物全体が
後日談:
- 《解説》 表向きは「古い建物の怪異に遭遇した話」に見えるが、仕掛けは以下。 ・物語の中で、主人公は一度も「子どものシャツを拾った」と明確に描写されていない。 “拾ったつもり”で抱えていたのは、建物側が主人公の記憶を書き換えた結果。 ・階段のループ現象は「帰り道を閉じるため」ではなく「主人公をスキャンして複製するため」の工程。 登場する“白いもの”や“沈んだはずのワイシャツ”は、その複製過程の断片。 ・最後に胸についた名札が主人公の名前だったのは、 建物側が“主人公の子ども服”を完成させた証拠。 ・つまり主人公は「助けを求めていた側」に“仕上がった”。 序盤で聞こえた「たすけて」は、もとは主人公の声だった可能性がある。 建物に入った時点で、主人公は「受け取られる側」になっていた、という反転。
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