
新着 長編
名札のある階段
志那羽尾岩子 3日前
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今でもあの夜の匂いを思い出すと、胸の奥がざわつく。
湿った布を干しっぱなしにした時のような、微かな酸味を帯びた匂いで、鼻の奥に残って離れない。あれを感じたのは、自分の部屋ではなかった。もっと古くて、もっと薄暗くて、もっと静かな場所だった。
その日の夕方、私は仕事を切り上げる頃にはひどい頭痛に悩まされていた。雨が降り出す前の、あの低い気圧に押しつぶされるような嫌な痛みだ。駅から家までの道を歩く間に、雨粒がひとつふたつ落ちてきたので、私は近道をしようと裏路地に入った。そこは普段なら通らない抜け道で、古い共同住宅が肩を寄せ合うように並んでいる。
路地の奥で、ふっと灯りが消えるように暗さが沈んだ。ひとの背中ほどの高さにある古い鉄扉が少し開いていて、そこから、あの酸味を含んだ匂いが流れていた。頭痛がにぶく疼き、私は思わず扉を押して中へ入った。
中は共用の階段室のようだった。薄い蛍光灯がひとつ、ぶん、と点いたり消えたりを繰り返している。階段の奥で誰かが動いた気配がした。小さな、こするような足音。私は「すみません」と声を出そうとしたが、喉が張りついて音が漏れなかった。
手すりには冷たい結露がついていた。指を滑らせると、ぬるりとした感触があった。湿気が異常に濃い。雨が降り始めたのだろうか。外の気配がしない。階段室全体が密室のように感じられた。
一段上がるごとに匂いは強まり、鼻腔を突き刺す。生乾きの洗濯物の奥に、何か脂の焦げたような匂いが混ざっている。頭痛がひどくなり、目の焦点が定まらなくなる。階段の途中の踊り場に、白い布が落ちていた。触れると湿っている。端の方に黒いシミが滲んでいて、指先にぬるさが残った。
階段の上の方で、誰かが小さく「たすけて」と言った。聞き間違いではない。震えた声だった。私は足を止めようとしたが、身体が勝手に上へ向かって動いていた。呼吸が浅くなる。手すりをつかむ手に力が入らない。
最上段に差しかかると、薄暗い廊下が横に伸びていた。左右どちらにも扉が並んでいるのに、全部が開いている。開け放たれた室内は暗くて、どの部屋も家具が覆いをかけられたままのように見えた。布の形がどれも人影に似ている。廊下の奥で、また誰かが呼んだ。「たすけて」と。
私はまるで糸を引かれるように、その声のする奥の部屋に近づいた。扉の前に立つと、部屋の中は真っ暗だった。床からかすかに水音が聞こえる。ぽたり、ぽたりと滴る音。雨漏り
後日談:
- 《解説》 表向きは「古い建物の怪異に遭遇した話」に見えるが、仕掛けは以下。 ・物語の中で、主人公は一度も「子どものシャツを拾った」と明確に描写されていない。 “拾ったつもり”で抱えていたのは、建物側が主人公の記憶を書き換えた結果。 ・階段のループ現象は「帰り道を閉じるため」ではなく「主人公をスキャンして複製するため」の工程。 登場する“白いもの”や“沈んだはずのワイシャツ”は、その複製過程の断片。 ・最後に胸についた名札が主人公の名前だったのは、 建物側が“主人公の子ども服”を完成させた証拠。 ・つまり主人公は「助けを求めていた側」に“仕上がった”。 序盤で聞こえた「たすけて」は、もとは主人公の声だった可能性がある。 建物に入った時点で、主人公は「受け取られる側」になっていた、という反転。
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