
新着 長編
名札のある階段
志那羽尾岩子 3日前
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共鳴するような細い音だった。耳鳴りかと思ったが、確かに階段の下から近づいてきていた。
私は恐る恐る覗くように階下を見ると、階段の一番下に黒い水たまりが広がっていた。その中央で、白いシャツが浮いていた。さっき沈んだはずのもの。それがまた、こちらを向くように揺れていた。名札のついた胸元が、照明の明滅に合わせて、脈打つように上下した。
沈んだはずのシャツが、また浮く。浮いたと思えば、上の階でも揺れている。どちらが本物なのか分からない。複製されたように、同じ白がいくつも滲み、私の視界で増え続けた。
気がついたとき、私は階段の下に立っていた。いつの間にか、降りられた。扉も水も、全て背後に飲み込まれたように消えていた。代わりに、外の雨音が聞こえていた。安堵が膝を抜くように広がった。
裏路地の空気は冷たく、湿度はまだ重かった。振り向くと、あの古い鉄扉は閉まっていた。誰かが内側から静かに押したような、ぴったりとした閉まり方だった。
私は急いでその場を離れた。頭痛はいつの間にか消えていた。雨の匂いが濃くなるにつれ、階段室の匂いは遠のいた。
その夜、シャワーを浴びようと服を脱いだとき、胸のあたりに冷たい感触が残っていた。見ると、肌の上に薄く黒い染みがついていた。指で触ると少しぬめりがある。あの階段で触ったものに似ていた。
思わず爪で引っかくと、染みはゆっくりと滲んで小さな文字に変わった。衣類の名札のような、滲んだ白い刺繍の痕跡に。
そこには――
私の名前が縫われていた。
染みはすぐに消えた。けれど爪の間に残ったぬめりだけが、雨の夜の記憶のように、しばらく取れなかった。
あの日以来、洗濯物が生乾きになると、胸の奥がざわつく。
あの建物の中で呼ばれた「返して」という声が、いまだに私に向いていたのか、それとも
私自身が「返す」側だったのか。
そこだけが、どうしても分からないままだ。
後日談:
- 《解説》 表向きは「古い建物の怪異に遭遇した話」に見えるが、仕掛けは以下。 ・物語の中で、主人公は一度も「子どものシャツを拾った」と明確に描写されていない。 “拾ったつもり”で抱えていたのは、建物側が主人公の記憶を書き換えた結果。 ・階段のループ現象は「帰り道を閉じるため」ではなく「主人公をスキャンして複製するため」の工程。 登場する“白いもの”や“沈んだはずのワイシャツ”は、その複製過程の断片。 ・最後に胸についた名札が主人公の名前だったのは、 建物側が“主人公の子ども服”を完成させた証拠。 ・つまり主人公は「助けを求めていた側」に“仕上がった”。 序盤で聞こえた「たすけて」は、もとは主人公の声だった可能性がある。 建物に入った時点で、主人公は「受け取られる側」になっていた、という反転。
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