
俺は失業し、生活に行き詰まっていた。老朽化した温泉宿に逃げ込んで、心の安息を求めていたが、今はただの逃避に過ぎなかった。宿の主は無口で、宿泊客はほとんどいなかったが、窓の外から時折聞こえる風の音が不気味さを増していた。
部屋には古びた湯呑みと、賞味期限が切れたビール、そして数錠の睡眠薬があった。俺はそれらを使って今日一日を忘れようとした。だが、酒が薄く、薬の効き目も弱かった。俺はただ、暗闇の中で自分の無力さを感じていた。
ふと、ドアの方から足音が聞こえた。振り向くと、若い男が立っていた。彼は俺と同様に宿泊客のようだったが、何故かその視線には冷たいものを感じた。
「これ、飲んでみてよ」と男は古い湯呑みを差し出した。
「これは…?」
「美味しいよ、特別な飲み物さ」と彼は微笑んで言った。しかし、その笑顔はどこか不気味だった。
俺は抵抗を感じながらも、湯呑みを受け取ってしまった。口にした瞬間、妙な高揚感が全身を駆け巡った。だが、それと同時に意識が朦朧としてきた。
「どうしたの?」男は優しく尋ねた。
「なんか…変だ…」
「大丈夫、すぐに楽になるから」と彼の声が遠のいていく。意識が遠のく中で、彼の姿が次第にぼやけていく。気づくと、俺は部屋の床に横たわっていた。
次に目を覚ましたとき、周りには俺の服が散乱していた。男の姿は消えていたが、彼が残した湯呑みがひとつ、俺の近くに転がっていた。その中には、赤黒い液体が残っていた。
慌てて立ち上がると、窓の外に何かが動くのが見えた。薄暗い明かりの中、温泉宿の裏手にある古い井戸のそばに、男が立っていた。彼はなぜか青白い光を放っているように見えた。俺は恐怖で身動きが取れなかった。
「お前、気に入ったかな?」彼はにやりと笑った。
その瞬間、俺は全てを理解した。彼はこの宿の主であり、俺を取り込むためにこの場所に誘ったのだ。自分の身を守るために、俺は逃げようとしたが、足が動かない。彼の目は俺を捉え、逃げ道はどこにもなかった。
「来てくれてありがとう。これからが本番だ」と彼は言った。その瞬間、周囲が暗転し、俺の意識は再び遠のいていった。
目が覚めたとき、床に散らばった服や荷物が目に入った。そこには、俺が着ていた服があった。彼は、俺をこの宿の一部にするつもりだったのだ。暗闇の中から、彼の笑い声が聞こえた。
「ようこそ、永遠にここで生きることになったね」と彼は言った。
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