
雨の匂いが強い夜だった。
梅雨の終わりで、空気がぬるく重い。
私は寝る前にいつもの癖で、机の上の小さな置き時計を見た。針はちゃんと進んでいるのに、秒の音だけが少し遅れて聞こえた。
廊下の突き当たりにある非常口の扉が、半開きになっている。家ではない。住んでいる建物の共用廊下だ。けれど私は、その扉を閉めに行く役目みたいなものを、いつの間にか引き受けていた。扉の向こうは階段室で、照明は節電のため薄暗い。そこに立つと、気配だけが先に触れてくる。
階段の踊り場に、誰かがいる。
私より少し背が低く、手すりに寄りかかっている。顔は影の中で見えないのに、視線だけは確かにこちらを向いている。服の色も形も覚えられない。ただ、濡れた紙のような匂いがする。私はその匂いを「その人」だと認識していた。
翌朝、母にそれを話した。母は食器を洗いながら、興味のない声で「共用廊下に人がいるくらい普通でしょ」と言った。私はうまく説明できなかった。普通の人じゃないとか、そういうことではない。普通の人なら、顔も服も記憶に残る。匂いだけが残る、なんてことはない。
その日の夕方、帰宅して靴を脱いだ瞬間、郵便受けの扉が少し開いているのに気づいた。中には何もない。広告もない。鍵は壊れていない。なのに、扉だけが開いている。
私はまた非常口へ向かった。扉は半開きになっていた。まるで、こちらが来るのを知っていたみたいに。
階段の踊り場に、やはり誰かがいた。昨夜より少し近い。手すりではなく、階段の最初の一段に立っている。私は自分の足が止まるのを感じた。気配が、息の熱みたいに肌に張りつく。
「そこ、危ないよ」
そう言ったのは私だったのかもしれないし、声にならない思考だったのかもしれない。相手は何も返さない。ただ、手を上げた。招くのではない。合図だ。どこかを指すみたいな、簡単な動き。
その指先の先にあるのは、階段を下りる方向だった。
私は一段だけ下りた。すぐに戻るつもりだった。けれど、その一段で匂いが変わった。濡れた紙の匂いが、湿ったコンクリートの匂いに溶ける。今まで「そこまで」だった境界を、私は踏み越えたのだと分かった。
次の日から、小さな異常が続いた。玄関の鍵が、確かに閉めたのに閉まっていない。エレベーターが開いても、誰も乗っていないのに香水の残り香だけがある。自分の部屋のドアスコープを覗くと、廊下がほんの少しだけ歪んで見える。歪みはすぐ戻る。見間違いだと言えばそれまでだ。
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