
エレベーターの「4階」を押した。
扉が閉まりかけた瞬間、白い手がスッと差し込まれて止まる。入ってきたのは、薄いベージュのコートの女。髪は濡れていて、雨の匂いがしない。目だけが乾いていた。
女は何も言わず、ボタンの列をじっと見たまま、ゆっくりと「4」を押す。
僕が押したのと同じ階だ。
「同じ階ですね」と言おうとして、やめた。女の指が、ボタンの上でほんの少し震えていたから。震えというより、待っているみたいに。
到着。扉が開く。
女は降りない。僕が降りる。背中に視線が刺さる。
廊下はいつもより暗い。足音がひとつ遅れて重なる。振り返ると、女が三歩後ろにいる。いつの間に降りた?
「…あの、どちらの部屋ですか」
女は僕の肩越しに、僕の部屋のドアを見ている。睫毛の影が異様に濃い。
「ここ」
そう言って、女はドアの横の表札を指差した。僕の苗字が書いてある。
「え? いや、ここ僕の――」
女が笑った。声は出ない。口だけが「やっと」と動いた気がした。
僕は鍵を探る。ポケットの中で金属が冷たい。差し込む。回る。いつも通りに。
カチャ。
ドアが少しだけ開く。
その隙間から、内側のチェーンが、ぶらんと揺れているのが見えた。……おかしい。僕はいつもチェーンなんて掛けない。
女がその隙間に、顔を寄せた。
「ただいま」
次の瞬間、内側から、子どもの手が伸びてチェーンを外した。小さくて、白くて、爪が黒い。
女は僕を見ずに、部屋の中へ滑り込む。
僕は固まったまま、開いたドアの隙間を覗く。玄関の三和土に、濡れた足跡がふたつ、奥へ続いている。女の分と――もうひとつは、僕の靴よりずっと小さい。
背後で、エレベーターの到着音が鳴った。
チン。
そして、廊下のどこかで、同じベージュのコートが擦れる音がした。今度は、僕のすぐ後ろで。
「4階、ですよね」
さっきと同じ女の声。
僕の肩に、乾いた指が置かれた。
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