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内側へ向く足跡

そのアパートには、昔から奇妙な決まりがあった。
夜中に廊下で足音を聞いても、絶対にドアを開けないこと。
管理人から直接そう言われたわけではない。ただ、入居者同士で自然と共有されている暗黙の了解だった。
理由は誰も詳しく語らない。
「開けた人が、すぐ引っ越した」とか、「部屋が空いたまま戻らなかった」とか、曖昧な話ばかりだ。
ある晩、午前三時過ぎ。
眠りが浅かった私は、廊下を歩く足音で目を覚ました。
裸足が床に吸いつくような、湿った音。
一歩ずつ、こちらへ近付いてくる。
足音は、私の部屋の前で止まった。
次の瞬間、ドアノブが、ゆっくり回された。
鍵は掛かっている。
それなのに、確かめるように、何度も何度も回される。
息を殺して布団の中で縮こまっていると、
ドア越しに、低い声が聞こえた。
「……いるのは、分かってる」
声は、私のものだった。
その瞬間、頭の中で、はっきり理解した。
廊下にいるのは、誰かじゃない。
今、布団の中で息を止めている「私」ではないほうだ。
ドアノブが止まり、足音が離れていく。
ようやく朝になり、意を決して廊下に出た。
床に、濡れた足跡が残っていた。
裸足の形で、途中まで続き、
私の部屋の前で、ぴたりと終わっていた。
その向きは、外ではなく――
ドアの内側へ、入っていく方向だった。
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