
中編
線香の匂いがする夜
こわがりナイト 4週間前
chat_bubble 0
186 views
私は、地方の病院で夜勤をしている介護士です。
もう慣れたつもりでした。深夜のナースステーションに響くモニター音も、薄暗い廊下の蛍光灯のちらつきも。
けれど、あの夜だけは違いました。
今でも、あの“匂い”を思い出すと吐き気がするほどです。
⸻
ある晩、同じ病棟のベテラン看護師が言いました。
「ねえ、人が亡くなる時ってね、線香の匂いがするのよ」
彼女は真顔でした。
「菊の花みたいって言う人もいるけど、私には線香。あの匂いがしたら、誰かが逝くの」
冗談半分に笑おうとしたけれど、彼女はただ遠くを見つめていました。
その夜は、なぜか廊下の空気が重く感じました。
⸻
数週間後、私の夜勤中にその瞬間が訪れました。
午前0時を過ぎ、ようやく終わりが見えてきた時――。
ナースコールではなく、モニターの「ピ――――」という長音が病棟に響いたのです。
慌てて駆けつけると、ベッドの上の男性は、もう息をしていませんでした。
看護師が淡々と処置を始め、私は指示されるまま動きました。
手が震えていました。
「死」という現実の前では、マニュアルなんて意味をなさない。
ただ、冷たくなっていく体を前に立ち尽くすことしかできませんでした。
そして、異変はその直後に起きました。
ナースコールが3つ同時に鳴ったのです。
けたたましい電子音が重なって、まるで誰かが「呼んでいる」ように。
その病棟には、重度の認知症や寝たきりの方が多く、普段ナースコールが鳴ることなどほとんどありません。
私と看護師は顔を見合わせ、同時に立ち上がりました。
最初の部屋に入ると、普段は一日中目を閉じているおばあさんが、上半身を起こしていました。
両手を合わせ、何かをつぶやいています。
「……あの人、迷わないように……」
鳥肌が立ちました。
別の部屋でも同じ。
お経のような声で、震える手を合わせているのです。
しかも三人全員が――。
彼らは、さっき亡くなった男性とは何の関わりもありません。
部屋も離れていて、面識すらないはずでした。
なのに口をそろえて「お見送りをしなきゃ」と言うのです。
夜中の病棟に、嗄れた声がいくつも重なりました。
まるで見えない誰かを送り出すかのように。
その瞬間、ふわりと線香の匂いがしました。
廊下の奥、処置室の方から――。
誰も焚いていないはずの香り。
甘く、湿った煙のような匂いが、私のマスク越しにもはっきり分かりました。
あまりの怖さに、私はナースステーションに逃げ帰りました。
けれど、看護師は静かにこう言ったのです。
「……分かったでしょう? あの匂いがする夜は、誰かが来るの」
今でも夜勤のたびに、私は無意識に空気の匂いを嗅いでしまいます。
幸い、あの香りを感じたのは一度きり。
でも、消灯後の静かな廊下を歩くと、時々ふっと――線香の煙のような、あの夜の気配を思い出すのです。
そして私はいつも思うのです。
もしかしたら、あの匂いは「死を告げる合図」なんかじゃなくて――
まだこの病院のどこかで、誰かが“見送っている”のかもしれません。
この怖い話はどうでしたか?
chat_bubble コメント(0件)
コメントはまだありません。