
中編
市松人形
おくすりのんでねよ。 1週間前
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古道具や骨董品を扱う小さな雑貨店の奥で、一体の市松人形が目に留まった。白い肌に黒髪、淡く色褪せた着物をまとい、微笑んでいるようでいて、どこか人間の感情を帯びた生々しさがあった。店主は「少し特別な子です」とだけ告げ、詳細は語ろうとしなかった。その沈黙はかえって好奇心を刺激した。外は冷たい雨が降り続けていた夜、手に取った人形をバッグに入れ、帰路についた。
最初の夜は静かで、何事も起こらなかった。しかし翌朝、棚に飾ったはずの人形の向きが微妙に変わっていたのに気づく。気のせいだろうと自分に言い聞かせるが、夜になると廊下で コツ、コツ と小さな足音が聞こえる。木造建物の軋みだと思い込もうとするが、音は確実に部屋の方へ近づき、時折、畳の隙間を踏むような微かな湿った音まで混ざる。目を閉じても、閉じなくても、背中に冷たい視線が突き刺さるようで、眠ることもままならなかった。
日を追うごとに、人形は少しずつ近くに寄ってくるように見えた。布団の端に座っていたり、棚からベッドを見下ろしていたり、暗い部屋の隅で微かに揺れる気配が感じられた。夜中に目を覚ますと、薄暗い影の中で人形の目がこちらをじっと見つめている。まぶたを閉じても、その視線は消えず、耳元にかすかな囁きが聞こえた。「……さむい……」慌てて目を開けると、布団のすぐ横に人形が座っていた。しかし瞬きをすると、元の棚に戻り、湿った足跡だけが現実に起きた証として残っていた。
恐怖に耐えかね、再び雑貨店を訪れると、店主は倉庫の奥に案内した。そこには同じような市松人形が何体も並び、どれも生きているかのように光を宿していた。「この人形たちは孤独な子供のために作られました。夜になると、ひとりで眠れない子のもとに寄っていくことがあります。一度“気づかれる”と、離れられなくなる」と告げられた。胸が凍りつく。
その夜、布団のそばに人形を置き、「今夜だけね」と囁いて眠りについた。耳元でかすかな声が聞こえた。「……あったかい……」安心した気持ちと同時に、眠りの深みに沈む。しかし朝目覚めると、人形はどこにもおらず、足元には着物を思わせる細い布切れだけが落ちていた。廊下では相変わらず コツ、コツ と絶え間なく足音が響き、夜を支配していた。
日を追うごとに生活は乱れ、眠れない夜が増えていった。人形に触れずにはいられず、無意識に棚を見つめる時間が増える。夜ごと忍び寄る足音は、恐怖というよりも、不可解な伴侶の存在を示すようになった。人形は孤独を見透かすようにじっと見つめ、無言の圧力で心を捕らえる。眠ろうと目を閉じると、布団の端に座っている気配があり、服の擦れる音、息をする音まで感じられる。
ある夜、寝返りを打つと、布団の中に人形が滑り込んできたかのような冷たい感触が肩に触れた。驚いて飛び起きると、棚の上に戻っている。しかし窓の外を見ると、雨に濡れた路地の向こうに微かに人影のようなものが揺れていた。視線を感じる。夜の闇の中で、確かに誰かが見ている。
眠れない日々が続き、昼間も頭がぼんやりとし、精神が次第に疲弊していく。誰かに相談しようとしても、現実を信じてもらえない。孤独と恐怖に押し潰されそうになりながらも、人形に触れずにはいられなかった。夜ごとに忍び寄る足音と囁き声は、恐怖であると同時に、どこか慰めのような響きでもあった。
ある夜、布団の端に座る人形を見つめていると、声にならない声が聞こえた。「……そばにいて……」部屋の空気が凍りつく。息が詰まりそうになる。体が動かなくなり、心臓の鼓動だけが耳の奥で響いた。眠ろうと目を閉じると、布団の中に誰かが滑り込んできたかのような感覚が再び襲う。冷たい指先が肩に触れ、髪をくしゃりと撫でる。目を開けると棚の上にはいない。だが影は、確かに部屋の隅で揺れている。
もはや逃げることはできない。人形に選ばれたことを悟った時、孤独から逃れることも、自由に眠ることも許されないと理解した。ただ共生するしかない。夜ごと忍び寄る足音、微かな囁き声、影の揺れ――すべては人形の存在を証明している。恐怖とわずかな慰めの間で、生活は静かに蝕まれ、夜は永遠に続くかのようだった。
そして今も、部屋の隅に微かに影が揺れるたび、耳元には子どものような囁き声が残る――人形の秘密を知る者だけに聞こえる、不気味で逃れられない夜の証として。
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