
夜明け前、震える指で退職代行に電話した。喉が詰まって社名すら言えない俺に、受話器の向こうの女は名乗りもせず、やけに明るい声で言った。
「大丈夫。あなた、優しすぎるだけ。辞めるって言えない人、私が一番得意なんです」
会社名と部署を伝えると、女はすぐ復唱した。言い方が妙に親しい。
「うん、そこね。上司△△、ね。今までよく耐えたね」
“よく耐えた”なんて、初対面の相手が言う言葉じゃない。けれど、その優しさに縋りたかった。
手続きのために、と本人確認を求められた。住所、勤務先、緊急連絡先。免許証の写真も。休職診断書の画像も。
「送って。あなたを守るために必要」
守る。救いの単語が、俺の判断を鈍らせた。
その日の午前、会社からの電話が止まった。昼には郵便受けに社員証と社章が入っていた。女は淡々と報告する。
「連絡完了。退職届提出済み。私物回収も手配した」
早すぎる。ありがたいはずなのに、胸の奥が冷える。
夜、同僚からメッセージが来た。
『お前、急に何?“二度と連絡するな”って…』
俺は送っていない。続けて母からも。
『あんた、誰かに脅されてるの?女の人から電話が…』
背中が冷たくなった。
慌てて代行に掛け直すと、女は機嫌よく笑った。
「周り、うるさいでしょ。あなたが弱ってるときに“本当のこと”言える人って、少ないの。だから私が整理したの」
「整理って何だよ」
「あなたの味方以外を、遠ざけただけ」
俺のスマホが勝手に鳴った。非通知。出ると女の声だった。通話は繋がっていないはずなのに。
「ねえ、上司に言ったよ。“あなた、恋人が迎えに行くから”って」
「恋人?」
「うん。私」
耳鳴りがした。あの時、本人確認で送った免許証。住所。緊急連絡先。署名欄がある委任状のPDFも、女に言われるまま書いて送った。
「代行の範囲だろ。会社とやりとりするための――」
「そう。だから、会社の書類、ぜんぶ私に届く。あなたの退職金の振込先も、変更できる。だって“あなたが望んだ”って形にできるから」
さらりと言う声が、恋の熱と事務の冷たさを同時に持っていた。
玄関のインターホンが鳴った。画面に、黒いコートの女。花束を抱えている。
「お疲れさま。もう会社に行かなくていいよ」
ドア越しに、甘い声が響く。
「あなた、逃げ癖あるから。退職は成功。でも次はね――人間関係から辞めよう。私だけ残せば、楽になる」
スマホに新しい通知が来た。
『緊急連絡先:***(彼女)に変更しました』
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