
中途で入った工房で、俺は一人の職人に付いた。
高級時計の修理と調整を請け負う、小さなアトリエだった。彼は十年選手で、作業台の上では手が一切迷わない。部品を取る速さ、ピンセットを置く位置、視線の運び方まで無駄がなく、客との雑談や見積もりの説明も滞らない。清潔で穏やかで、誰の前でも同じ温度で笑う。工房の空気そのものみたいな人だった。
俺は当たりを引いたと思った。
昼休みに飯に連れていってくれ、閉店後にはコーヒーを淹れて、古いムーブメントの癖を見せてくれた。休日に工具市へ誘われたこともある。三年ほど、そういう時間が続いた。
異変は、深夜の着信だった。
午前一時を少し回ったころ、携帯が鳴った。表示は彼の名前。出ると、声が乾いていた。
「今から来られるか。……見てほしいものがある」
理由を聞く間もなく切れた。冗談で人を振り回すタイプじゃない。眠気より先に嫌な予感が立って、俺は上着だけ掴んで工房へ向かった。
シャッターは半分開いていて、奥だけ灯りが点いていた。鍵を開けて入ると、作業台の前に彼が座っていた。机はいつも通り整っているのに、本人だけが崩れている。顔色が悪く、目の焦点が合わない。手袋もせず、裸の指先を何度もこすっていた。
「どうしたんですか」
返事はなく、彼は小さな木箱を押し出した。工具入れに見えたが、重さが妙だった。蓋を開けると、古い懐中時計が一つ入っていた。ガラスも針も素朴で、工房の客が持ち込む類じゃない。だが裏蓋だけが異様だった。極細の線が、文字とも記号ともつかない形でびっしり刻まれている。目で追うほど、頭の奥がむず痒くなる。
「読めるか」
「読めません。……何ですか、これ」
彼は首を振った。
「言語じゃない。古い決まりの書き方だ。俺は、読める」
工房で「うち」と言うときの、それは会社でも家でもない、もっと固いものを指す響きだった。
「生まれのほうから来た。これが出たら、戻る。立ち会いが必要なんだ」
「戻るって、どこに」
「海のほう。……行き先は、着いたらわかる」
彼は初めて俺を見た。助けを求める目だった。完璧な人の目じゃない。逃げ道がない人の目だった。
「一緒に来てくれ。俺一人だと、変な判断をする」
断る理由が見つからなかった。刻印を見た瞬間から、空気が薄くなった気がして、会話の合間に息が足りなくなる。
後日談:
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