
首
その温泉旅館は、山あいの川沿いにひっそり建っていた。社員旅行の幹事を押し付けられた俺は、予算と立地だけでそこを選んだ。サイトの写真は綺麗だったし、口コミも悪くない。
ただ、到着してすぐに気づいた。廊下が、やけに静かすぎる。客が多いはずなのに、足音も笑い声も薄く、襖の向こうから聞こえるのは川の音だけだった。
夕食の席で、酒が回った先輩が中居さんを呼び止めた。
「この旅館ってさ、昔なんかあった?」
冗談半分だったのに、中居さんの表情が一瞬だけ固まる。すぐに笑って「さあ」と逃げたが、その笑いは布を被せたみたいに薄かった。
部屋に戻ってから、同僚の槙田が小声で言った。
「フロントの掲示板、見た? スタッフの名札、ひとつだけ外れてた」
くだらない、と流そうとして、俺は気づいた。確かにフロントの壁には木札が並んでいたが、ひとつだけ金具が空だった。そこだけ、黒い跡が残っていて、何度拭いても落ちない煤みたいな汚れが付いていた。
夜中、トイレに起きた。廊下の非常灯が青白く、畳が湿っている気がする。角を曲がった先、従業員用の通路に目がいった。立入禁止の札が掛かっているのに、奥のほうで小さな灯りが揺れていた。
戻ろうとして、ふと背後に気配がした。
振り返ると、女がいた。
黒髪が乱れ、着物の襟元がずれている。顔色は蝋みたいに白いのに、目の周りだけが疲れたように暗い。年齢は分からない。二十代にも見えるし、もっとずっと上にも見える。
彼女は俺を見ず、壁の木目を見つめていた。いや、壁じゃない。あの、名札が外れていた場所。そこを、じっと。
「すみません、迷われました?」
声をかけた途端、女の首が、きゅ、と変な角度で回った。
回り方が、ゆっくり過ぎる。関節が一段ずつ送られるみたいに、ぎこちなく。
目が合った瞬間、喉の奥が凍った。
女の首と胴の境目が、ずれている。
襟の下に、皮膚ではなく――黒い紐のようなものが見えた。縄。濡れた縄が、首の周りに食い込んでいる。
俺が息を呑むと、女の口が動いた。
「……くび、になった」
そう言ったように聞こえた。
その瞬間、背後から別の足音が駆けてきた。「お客様!」中居さんが息を切らして現れ、俺と女の間に割って入る。
「夜中は危ないので、部屋へ……」
中居さんの声は震えていた。俺は女のほうを見ようとしたが、中居さんが視線を遮るように立つ。
「いま、そこに――」
言いかけて、中居さんの顔色がさらに青くなった。
「見、ましたか」
それは確認というより、祈りだった。
後日談:
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