
長編
潮鳴様
匿名 2時間前
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それは、建前だった。
彼はもう知っている。
この地には、“還る場所”がある。
神が棲む、海ではない海が。
あの日以来、Aは海へ行っていない。
海を見ると、心臓が締め付けられるのだという。
医師の診断では「急性ストレス反応」、つまり心因性の不調。
けれど、A自身は違うと感じていた。
「違うんだよ、怖いとかじゃない。……ただ、あの波の音が、俺の中にあるんだ。ずっと前から、そこにあったみたいに。」
Bは街を出た。
何も告げず、数週間後に引っ越していた。
LINEには既読がつかず、電話も繋がらなかった。
佐原はBの居場所を調べ、転居先を訪ねた。
出てきたのはBの母親だった。
彼女はひどく疲れた顔でこう言った。
「……あの子、夜中にね、“耳が濡れる”って言うの。寝てても急に飛び起きて、頭を振るのよ。まるで、耳の奥に……波が入りこんでくるみたいだって。」
――海の記憶。
――体の奥に染みついた“神の音”。
佐原は、それを“共鳴”と記録した。
信仰の記憶。あるいは、存在の侵食。
その夜、佐原も夢を見た。
祠の前。森の中。
地面に横たわる白い布のようなもの。
近づくと、それは人の形をしている。いや、“人だったもの”。
呼吸も、言葉もない。
ただ、そこに横たわっている。
波の音が、空から降ってくる。
潮の満ち引きではない。
肉の中に入りこんでくるような、海の音。
ふいに、白いそれが顔をこちらに向けた。
目がない。口がない。
だが、確かに“見て”いる。
「……おぼえているね」
「きたこと、あるね」
「なぜ わすれたの」
佐原は立ち尽くしていた。
言葉も出ない。
その時、彼の足元に水が満ちていた。
暗く、重く、冷たい。
それは水ではない。血かもしれない。記憶かもしれない。
そして、声がした。
「おまえも しずむ」
「おまえのなかに わたしがいる」
「だから しずんで」
――目が覚めた時、シーツが濡れていた。
汗ではなかった。塩の匂いがした。
その日の夜、佐原は地元の資料館で古い記録に目を通していた。
何度も出てくる名――
潮成(しおなり)大人(うし)
それはこの地にかつて祀られていた、“海神とされるもの”の異称。
人の姿にして人にあらず。
潮の道を歩み、海の代わりを持ち、時折「人を呼ぶ」。
「潮成大人の祠、今は森に埋もれ。かつては白布をもって海辺に現る。
女のかたちをとるが、見てはなら
後日談:
- 以前別の怪談サイトにも投稿した話です。
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