
数年前、友人の姉から聞いた話だ。
姉が結婚前に勤めていた職場に、政子さんという親友がいた。明るく美しく、誰からも好かれる人で、姉にとって特別な存在だったという。
ある年の二月、二人で義理チョコを買いにデパートへ行った。姉は恋人――今の夫――への本命と職場用を選び、政子さんも同じように籠を満たしていたが、その中に一つだけ、明らかに高価な箱が混じっていた。「告白するつもりなの」と照れた笑顔で言われ、姉は心から応援した。
バレンタイン当日。職場で義理チョコを配り合い、偶然にも同じ種類を選んでいたことに笑い合った。その後、政子さんの机の上のチョコが床に落ち、掃除用バケツに浸かってしまう。箱はびしょ濡れで使い物にならなかった。姉は迷った末、自分の同じチョコを代わりに置いた。甘い物が苦手な自分より、政子さんのほうが喜ぶと思ったからだ。
翌日、政子さんは穏やかに聞いた。
「昨日、チョコ食べなかったの?」
姉は胸が詰まりつつも、曖昧に笑って答えた。
その翌朝、政子さんの訃報が届く。死因は服毒自殺。遺書はなく、理由も分からなかった。姉は深く自分を責め続けた。
一年後、姉は結婚し妊娠した。だがある日、青ざめた顔で言った。
「政子が死んだ理由、分かったの」
政子さんは、姉の夫に告白していたのだという。「あなたたちが幸せそうで耐えられない。このままだと、自分を殺すか、正子を殺すかしてしまいそう」。夫は断ったが、その数日後に彼女は亡くなった。
姉は震えながら言った。
「自殺だったら、まだ良かったのに」
あのときの笑顔と、「チョコ食べなかったの?」という言葉。兆候のない突然の死。そして、入れ替えたチョコ。
もし彼女が選んだのが「自分」ではなく「正子」だったとしたら。
最後に姉は、押し殺した声で呟いた。
「私の代わりに、政子がチョコを食べたんだよね……?」
それが事実か思い込みかは分からない。ただ、妊娠中の姉の心を、これ以上追い詰めないでほしいと願うばかりだ。
後日談:
- 姉はその後、無事に子どもを産んだ。出産は軽くはなかったが、取り立てて異常もなく、医師からは「順調でしたよ」と言われたという。 ただ、産後しばらくしてから、姉は甘い匂いにひどく敏感になった。 チョコレート菓子の包みを開ける音がすると、別の部屋にいても分かるらしい。鼻の奥に、金属を溶かしたような甘さが張りつき、喉がひりつくのだと訴えた。妊娠中の名残だろうと周囲は笑ったが、本人だけは首を横に振っていた。 「違うの。あの匂い、知ってる」 夜、授乳を終えたあと、姉は時々赤ん坊の顔をじっと見つめて動かなくなる。唇の端が、わずかに茶色く染まっていることがあるという。拭えばすぐ取れる。それでも、姉は毎回、同じ言葉を呟く。 「まだ、残ってる」 ある日、夫が冗談めかして言った。 「将来、甘い物好きになるかもな」 その瞬間、姉は泣き出した。声を殺して、肩を震わせて。理由を聞いても答えず、ただ何度も子の背を撫で続けた。 後になって、姉はぽつりと漏らした。 「政子はね、チョコが好きだったでしょう」 「でも、あの人……本当は、苦いのも平気だったの」 どういう意味かと聞くと、姉は答えなかった。ただ、赤ん坊の小さな手を見つめながら、こんなことを言った。 「代わりに食べた、って思ってた。でも」 「もしかしたら、渡した時点で――もう、混ざってたのかもしれない」 何が、と聞き返す前に、子どもが小さく咳き込んだ。口の端に、また甘い匂いが立った気がした。 私は今でも、あの子の誕生日にチョコレートを贈らない。 包みを開けた瞬間、誰がそれを食べるのか。 考えてしまうからだ。
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