
書架の三段目だけが、毎朝わずかに違っている。
高さも色も、完璧に揃っていることに変わりはない。背表紙は寸分の狂いもなく並び、装丁は新品のように鮮やかだ。だが昨日まであった小さな擦り傷が消え、代わりに見覚えのない装飾が一冊にだけ加わっている。誰も気づかない程度の変化だ。だが私は、昨日そこを拭いた。
三段目だけが、時間の流れに従っていない。
あの検閲官が来館したのは、老司書がいなくなってから一ヶ月後だった。
地下書庫は混乱していた。寄贈本の山が崩れ、目録の総数と実在庫が一致しない。欠落しているはずの写本が棚にあり、登録済みの図録がどこにも見当たらない。私は修復室の机で、誰のものでもない分類メモを見つけた。癖のある筆跡で、余白にこう書かれていた。
「念のための補筆」
それが老司書の口癖だった。
彼は、どの箱のどの書物がどの湿度で傷むかを覚えていた。夜中でも手袋越しに紙の繊維を撫で、欠落した文字を「戻して」いた。だが退職の内線が流れた朝、職員名簿から彼の名前は消えていた。最初から空欄だったかのように。
館長は言った。「そのような職員は在籍していません」
記録が正しいのか、私の記憶が誤っているのか、誰も検証しようとしなかった。
検閲官は灰色の手袋を外さず、淡々と帳簿をめくった。
「目録の総数と、インクの総重量が一致しません」
文学的評価ではない、と彼は言った。問題は収支だ、と。
その瞬間、修復室の床に落ちていた黒い染みが動いた。
光を反射しない粘ついた液体が、静かに這い、書架の影へと溶け込む。書物を汚すことはない。ただ、開かれたページに滲み、脱字を埋める。だが埋められた一文は、元の文章と微妙に異なっていた。意味は通る。だが、主語が入れ替わっている。
私は違和感を覚えた。だが原本はどこにもない。修復前の状態を証明する資料もない。
検閲官は万年筆を走らせながら言った。
「存在しない変数を追加しないでください」
私は何も口にしていない。
彼は続けた。「過剰な情報は全体を歪めます」
その夜、三段目の書架が整った。
乱雑だった寄贈本は分類され、欠落していたはずのページは「最初から存在しなかった」として目録が再編された。混乱は終息した。職員たちは安堵し、誰も老司書のことを口にしなくなった。
だが三段目だけが、新しすぎる。
そこに並ぶ本は、発行年が過去であるにもかかわらず、紙の繊維が若い。指で触れると、微かに湿り気がある。まるで、つい今しがた刷られたようだ。
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