
一
同期入社の建築士——几帳面で読書家の女が、先週、珍しく私のデスクまで来て言った。
「ねえ、信じられないものを見つけてしまったんだけど」
「何を」
「呪われたビルディング。しかもこの街の、駅から歩いて七分のところに」
「それ、事故物件とは違うの」
「違う。事故とかそういうレベルじゃなくて——まあ聞いて」
彼女は声を低くした。
三ヶ月前、彼女と夫が事務所を移転しようとして物件を探していた。ある通りを歩いていると、築四十年ほどのオフィスビルの一室に「テナント募集」の張り紙があった。立地も家賃も条件に合っていたので内見を申し込み、鍵を受け取って入ってみると、部屋の造りも気に入った。二週間の仮契約を結んだ。
しかし五日目に引き払った。
「夫がもう絶対にいやだって言うんだもの。それは仕方がないとしても——」
「きみ自身は何かあったの」
「ある一室の前を通るたびに、何かを感じるのよ。うまく言えないんだけど、空気が違う感じ。音も聞こえないし、何かが見えるわけでもない。ただ、その部屋の前に立つと、体温が一度下がるみたいな」
六日目の朝、彼女は管理人に事情を話した。すると管理人——六十代の小柄な男性——は少しも驚かずにこう言った。
「ああ、そうでしたか。あなたがたはよく持ったほうです。一週間いられた方なんて、ここ十年ではいません。三晩がせいぜいです。もしかしたら、あちらがあなたがたを気に入ったのかもしれませんね」
彼女が「あちら、というのは」と訊ねると、管理人は続けた。
「わかりません。でも私は子供の頃から知っています。昔、父がここを借りていたことがあって、その頃から何かがいた。やがて私を殺しに来るだろうとは思っていますが、構いません。私はこの通りの歳ですから。死んでからはあちらと一緒に、ここに残れるかもしれない」
あんまり平然と言うので、彼女は声も出なかった。
「——だから、あのビルのこと調べてみたいんじゃないかと思って」と彼女は私を見た。「あなた、そういうの好きでしょう」
否定はできない。私は住所を書いた紙片を受け取った。
その日の夕方、私は直接そのビルへ行ってみた。七階建て、外壁はくすんだベージュ。今は人の気配がなく、「テナント募集」の張り紙も剥がされていた。呼び鈴を押しても反応がない。
引き返そうとすると、向かいの薬局の前で段ボールをたたんでいる男性が声をかけてきた。
「そちらのビルに何かご用ですか」
「テナント募集を見て来たんですが——」
後日談:
- 《あらすじ》 駅から徒歩七分の場所にある、古びた七階建てのビル。 条件も立地も申し分ないのに、なぜか長く借り手が続かない——そんな噂から物語は始まります。 きっかけは、主人公の同期である建築士の女性のひと言です。 夫婦で事務所移転を考え、実際に入居したものの、わずか数日で退去することになってしまったといいます。はっきりとした怪異があったわけではありません。ただ、ある場所の前を通るたびに感じる、説明しきれない違和感。空気の質が変わるような感覚。体温がわずかに下がるような、静かな恐怖。 主人公は、その曖昧さに惹かれます。 明確な幽霊や怪奇現象ではなく、「言葉にできない違和感」が積み重なっていくところに、この物語の怖さがあります。 実際にビルを訪れ、夜を過ごし、観察し、記録しようとする過程はとても冷静です。派手な演出や大げさな恐怖ではなく、少しずつ日常がずれていく感覚が丁寧に描かれます。読んでいるうちに、自分もその空間に立っているような気持ちになります。 そして物語は、単なる心霊譚では終わりません。 建物の構造、過去の記録、人の記憶——それらが重なり合い、「そこに残っているもの」の存在を静かに浮かび上がらせます。 怖いのに、目を離せない。 ページをめくる手が止まらなくなるタイプの物語です。 都市の中に、ひっそりと取り残された何か。 その正体を、自分の目で確かめたくなる方に、ぜひ読んでいただきたい一編です。 志那羽岩子
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