
父には放浪癖があった。
蒸発というほど大げさではない。ある日ふっといなくなり、数日、長いときは一週間ほど帰らない。それだけだ。財布も通帳も持ったまま、仕事も放り出し、行き先も告げずに消える。
警察に届けるほどでもないと、母は言った。「そのうち戻るから」。だが、その「そのうち」が読めない。
父がいなくなるたび、母は決まって近所の神社へ行った。石段を上り、拝殿の手前に並ぶ狛犬のうち、右側の口を開けたほう。その首に、父の草履を結びつける。
古びた藁草履だ。鼻緒は擦り切れ、踵はすり減っている。それを、麻紐で固く縛る。
「これで帰るわ」
母はそう言った。祈るでもなく、願うでもなく、ただ結びつける。
不思議なことに、父は必ず帰ってきた。三日後だったり、翌朝だったりするが、例外はなかった。何事もなかったように玄関を開け、「腹減った」と言う。
帰ってきたら、母はまた神社へ行く。今度は草履を外しに行くのだ。
「何回も世話になったわ」
父の葬式のとき、母は笑いながらそう言った。冗談めかしていたが、目は笑っていなかった。
父が死んでからも、母は月に一度、神社へ通った。草履は持っていかない。ただ、狛犬の首元をじっと見つめる。
ある日、母が倒れた。軽い脳梗塞だった。命に別状はなかったが、しばらく入院することになった。
退院の前日、病室で母が言った。
「草履、外しといて」
意味がわからなかった。父はもう死んでいる。草履も、あの葬式の日に焼いたはずだ。
「何のこと?」
「右のほう。きつく縛りすぎたから」
それ以上は聞けなかった。母は眠ってしまった。
翌朝、退院前に神社へ寄った。念のためだ。狛犬の首には何もない。縄の跡もない。いつも通りの石の質感だ。
だが、触れた瞬間、指にざらりとした感触が残った。石ではない。繊維のようなものが、爪の間にひっかかった。
よく見ると、狛犬の首のくびれに、擦れた跡がある。長いあいだ何かを巻いていたような、浅い溝だ。
誰が。
いつから。
その夜、父の夢を見た。玄関の外に立っている。背中を向け、どこかへ行こうとしている。足元は裸足だ。
「待てよ」
声をかけると、振り向かないまま言った。
「外してくれたか」
目が覚めると、玄関のたたきに、見覚えのない藁屑が落ちていた。
母はその後、神社へ行かなくなった。何も言わない。ただ、時々、家の中を見回す。
まるで、誰かがまだ戻ってきていないみたいに。
私は一度だけ、確かめたくなった。古道具屋で似たような草履を買い、夜の神社へ持っていった。
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