
長編
出土した災厄
しもやん 2020年3月21日
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する春愁戦国時代からの伝統だ。
中国では易姓革命によって頻繁に支配者が変わるため、住民たちはもともと彼らに対する忠誠心を持ち合わせていなかった。兵士は戦争が始まって相対的に実入りがよいと判断した農民たちが一時的になるものであって、間に合わせの烏合の衆であった。
兵士たちは勝てば官軍、占領地で暴虐の限りを尽くす。食料を奪い、金目のものを盗み、女性を犯す。負ければ地方へ落ち延び、山賊稼業に身をやつす。むかしの中国人には定まった職業はなかったといえる。平和な時分には農作業に従事し、乱世になれば兵士として戦争に参加し、負ければ盗賊である。
日中戦争当時、ハーグ条約と呼ばれる国際的な戦争のルールが一応制定されていたものの、それを上記のような寄せ集め軍隊の末端にまで徹底させられるほど中国軍の軍紀が整っていたとは思われない。彼らはむかしからの伝統にしたがって、落ち延びた先の町を略奪していった。日本軍が追いついたころには徴発できる食料ひとつ残っていない、荒廃したゴーストタウンがあるばかりだったのだ。
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昭和12年12月1日
南京攻略決定す。隊の雰囲気目に見えて活性せり。同日早速進軍始まるも、行軍ははなはだ辛く、38式の重さが堪える。食料は乏しく、冷雨に降られて体調を崩す者続出せり。
昭和12年12月7日
前日、句容攻略完了す。まれにみる大会戦であった。自分の隊からもついに死者が出る。支那兵は状況不利と見るや即座に投降する傾向大なり。句容戦でも帝国陸軍は多数の捕虜と装備の鹵獲を得た。鹵獲品のなかにはロシア製の火器が相当数混じっており、支那共産化の懸念を新たにす。
昭和12年12月8日
南京城包囲。辛い行軍もここが最終だと部隊長が喝を入れられる。12月10日はほかの部隊と共同で総攻撃をかける由。武者震いで目が冴えてしまう。今夜は眠れそうにない。
昭和12年12月9日
陣地構築。塹壕を掘り、穴ぐらのなかで1日中待機する。支那軍が近隣の村を焼いているとの報せ多数。無辜の支那人民のためにも明日の総攻撃は成功させねばならぬ。
昭和12年12月14日
多忙を極め、近々の日記を怠ってしまった。総攻撃は成功裏に終わり、南京は陥落せり。城内に入場するも、すでに主力部隊は遁走したあとであった。わが隊は城内の治安維持にあたり、民間人への略奪は厳に慎むべしと命令を受ける。
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chat_bubble コメント(5件)
- こわいブースター
- 小説にして商業出版できるくらいレベル高い。歴史に絡めた、圧倒的にリアリティある話は凄いの一言です。匿名
- レベル高いけど、分かりやすかった。高レベル投稿を期待します。防空頭巾
- 史実に絡んだ怖い話、ちょっとレベルが高いですね。日記の空白期間、何が起こっていたのか気にはなります。もあ30年以上前に他界した私の祖父も満州や華南などの戦地に赴いていて、その当時の話を子供ながらに興味深く聞いたものですが、当時の自分に歴史的な知識と見識がもっとあればいろいろ聞けたのにな、と今更ながら残念に思っています。あ
- このお話、はっきり言って怖いのか何なのか わからないんですが。解説が多いです。 もっと分かりやすく書いてくださいね。しゆか