
珠美は、自分の名前の音が日によって違う気がしていた。
担任に呼ばれるときは「たまみ」と聞こえるのに、母が呼ぶと「たまよ」に近い。自分で名札を指でなぞっても、輪郭が定まらない。気のせいだと決めて、毎朝いつも通り制服に腕を通した。
高校二年の春、同じクラスになった英子が、珠美のことを呼ばなくなった。
最初は些細だった。廊下ですれ違うと目を逸らされる。席替えのとき、机の上のプリントが一枚だけ残る。誰かが笑う。珠美が視線を上げると、笑いが遅れて追いかけてくる。
ゴールデンウィークが過ぎる頃には、話しかける相手がいなくなった。珠美が何かしたわけでもない。英子は理由を言わない。ただ、珠美の前ではその名前を使わない。代わりに「あれ」と言った。
「あれ、また来てる」
「あれ、今日も休まないんだ」
珠美は、教室の空気の中で自分だけが薄い紙になったように感じた。押せば破れるのに、破られる瞬間だけが来ない。体育祭も試験も修学旅行も文化祭も、その紙のまま通り抜けた。誰にも触れられないまま、ただ立っている。
十一月の半ば、授業中に英子がふいに顔を上げた。
黒板の文字ではなく、珠美の首元を見た。英子の視線だけが、そこに釘を打つように留まった。珠美は襟を押さえた。何もしていないのに、首筋が熱くなる。
その夜、母が声をかけた。
母は寺の家に生まれ、厳しい言い方をしない人だった。だがそのときだけ、言葉が短かった。
「表を消す」
「何のこと」
「刻まれたものは外せる」
母は財布から十円玉を一枚出した。裏の年号を見せた。製造年月日と小さな数字。そこを、紙やすりで削った。金属の粉が爪の間に入り、息を吸うと舌がざらついた。母は水で薄めた酢を麻布に含ませ、削った面を丁寧に磨いた。
数字が消えた。年が消えた。
母は小さなお守り袋に十円玉と短い釘を入れ、紐を通した。
「削った面を前にして首にかける。家に帰ったら磨く。毎日だ」
「いつまで」
「順番が戻るまで」
珠美はそれを首に下げた。肌に触れる布が冷たく、十円玉だけが妙に重かった。磨くと金属の匂いが強くなった。磨くたび、教室で遅れて聞こえる笑い声が、少しだけ静かになる気がした。
翌日から、異変が増えた。
教室の時計が、珠美が視線を向ける瞬間だけ止まる。止まっているのは一秒にも満たないのに、止まったことだけが残る。黒板の隅に書かれる日付が、翌日になる前に薄くなる。誰も気にしない。誰も見ていないようにふるまう。
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