
大学1年の冬、終電を逃しかけて駅まで急いでいた夜の話です。
あれは怖いというより、気持ち悪いほど“惚れられた”感じが残っています。
商店街の裏道。街灯が薄くにじんで、空気だけが湿っていました。
背後から「ねえ」と呼ばれて振り返ると、黒いコートの女の人が立っていた。髪から水が落ちているのに、路面は乾いている。
「駅、どっち?」
案内しようと歩き出した瞬間、足音がないことに気づきました。距離はぴったりなのに、音だけが欠けている。
嫌な予感がしてコンビニの明かりの方へ曲がろうとしたら、耳元で笑われた。
「そっち、やだ」
振り向くと、女の人はもう隣にいた。いつ? と頭が追いつかない。
襟元から覗く肌は紙みたいに白くて薄く、目はガラス玉みたいに光が入ってこない。
「学生?」
「はい…」
「いいね。やわらかい」
言い方が、恋人に触れるみたいでぞっとしました。
そのまま女の人は僕の腕を掴んだ。軽いのに、皮膚の内側を摘ままれる痛み。
「名前、教えて」
「いや…」
断った瞬間、女の人は不機嫌になるどころか、嬉しそうに目を細めました。
「うん、そういうの。好き」
その言い方がいちばん怖かった。拒絶が、燃料みたいに喜びに変換されてる。
女の人は僕の胸元をじっと見て、指先で空中をなぞり始めました。
まるで僕の心臓の位置を撫でるみたいに。
「ねえ、聞いて。わたしね、好きになると数えちゃうの」
「数える?」
「あなたが、わたしのものになるまで。だいじな順番。だいじな回数」
そして小さく数え始めたんです。
「いち、に、さん、し……」
声が妙に甘くて、背中の芯が痺れる。
その数が、僕の鼓動にぴたりと重なっていく。
カン、カン、カン——
踏切の警報音が遠くで鳴ったとき、女の人がすっと口角を上げました。
「音、邪魔」
その瞬間、僕の腕を掴む力が変わった。握る力じゃなくて、引き寄せる力。骨ごと近づけられる感覚。
顔が近い。息が冷たくて、微かに鉄の匂いがする。
「駅より、こっち」
女の人が指差したのは、裏道のさらに奥。街灯の届かない黒い隙間でした。
そこから、誰かの笑い声みたいなものが聞こえた気がした。複数の、低い笑い。
「行かない」って言おうとしたのに、喉が動かない。
代わりに女の人が、僕の耳に口を寄せて囁きました。
「ねえ、好き。好き。……好きって言いながら嫌がるの、すごく可愛い」
ぞっとして、ようやく身体が動いた。
僕は踏切の方へ全力で走りました。
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