
祖母が死んだ年から、同じ夢を見るようになった。
夢の中では必ず、見知らぬ家の廊下に立っている。板張りの、古い廊下だ。行き止まりに障子があって、その向こうから三味線の音がしている。弾いているのか、それとも誰かが唄に合わせているのか、判別できないまま近づこうとする。そこで目が覚める。
内容を覚えているのは、目が覚めた最初の数秒だけだ。障子の柄、板の節、音の速さ。それが息をするあいだに溶けて、残るのは場所の感覚だけになる。帰りたい、という感覚だ。どこへとは言えない。ここではない、としか言えない。その感覚だけが胸の底に数時間居座り、昼になるころにようやく薄れる。
夢を見た翌朝は、きまって喉が渇いている。
二年前の冬、私はその夢を書き留めることにした。
目が覚めた瞬間、枕元のノートを開いた。障子の木の色、板の幅、音の高さ。指が覚えているうちに書いた。書き終えて台所へ行き、水を飲んで戻ってきた。一分も経っていないはずだった。
ノートは開いたままだった。だが、書いたページが切り取られていた。
切り口は定規を当てたように真っ直ぐで、紙片は室内のどこにもなかった。窓は閉まっていた。鍵もかかっていた。私はそのノートを押し入れの奥に押し込み、出勤した。
その日の夜、何かが気になってノートを出した。
切り取られたはずのページが、戻っていた。
破れた跡も、切り口もない。ただ、書いた文字がなくなっていた。ページは白紙で、紙の目が新しかった。押し込む前に触った時の、使い込んだざらつきがなかった。まるで、そのページだけが最初から白紙だったように。
私は翌朝の新聞の一面をそのページに写し取り、日付と時刻を書き添えて、鍵のかかる引き出しにしまった。
三日後に取り出すと、新聞の活字は残っていたが、日付と時刻の部分だけが消えていた。私が書いた字だけが、なかった。
それからは何も書かなかった。
昨年の春、祖母の家を整理することになった。
祖母は九十二で死んだ。独り暮らしを最後まで続け、施設には入らなかった。縁側のある古い平屋で、廊下が長い家だった。片付けに通ううち、私は仏間の押し入れを開けた。荷物を全部出すと、奥に木の板が渡してあった。外すと、そこだけ壁が白かった。
黒い文字が並んでいた。
墨か何かで書いたのか、細く、引っかくような線だった。
《ここではない》
《名前が違う》
《唄わないと迷う》
《はやく戻して》
整然としていたのは最初の四行だけで、その下から字が乱れた。
《遠すぎる》
《やめて》
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