
冬晴れの日、夜勤明けで眠れなかった私は、気分転換に市営植物園へ行った。三十一歳で音響機材の仕事をしている。植物には詳しくないが、温室の水音を録るのが好きだった。
温室の入口で録音機の電池が切れた。交換しようとしたとき、さっき通り過ぎたはずの女が、入場待ちの列の最後尾に立っているのが見えた。
列は温室へ向かっている。女だけが反対を向いていた。顔はよく見えない。それでも、こちらを見ているとわかった。
気味が悪くなって、録音機をしまい、そのまま植物園を出た。
帰宅後、私は午後のうちに寝落ちした。
玄関の呼び鈴で目が覚めた。体が動かない。寝室の戸口から、濡れた葉をこするような音が近づいてくる。目は開けないでおこうと思ったのに、冷たいものが頬に触れ、顔を横へ押された。
目の先には、温室で見た女がいた。曇ったガラスの向こうにいるように輪郭がぼやけているのに、口元だけははっきり笑っていた。
声を出そうとしたところで、私は気を失った。
目を覚ましたのは夕方だった。従姉に電話すると、彼女は「寝不足だよ」と笑いながら、食事に付き合ってくれた。
帰り道、植物園の前を通った。私は、昼間ここで女を見たことを話した。従姉は、建物のガラスに映る自分たちを見ながら聞いていた。
「ほら、あそこ。入口の列にいる」
従姉は振り向いた。「誰もいないよ」
私はガラスを見た。女は、映った私の背後に立っていた。従姉が腕をつかみ、歩き出す。映像の中の私は、まだ女を見つめている。
少しして、従姉が「もう大丈夫?」と尋ねた。
私はうなずいて目を閉じた。息を整えて、目を開ける。
植物園も従姉もいなかった。自分の部屋のベッドだった。スマートフォンには、植物園へ行った日の昼過ぎの時刻が表示されている。
夢だったのかと思い、頬をこすった。ひどく冷えていた。
そのとき、耳元で葉擦れの音がした。
「もう大丈夫?」
後日談:
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