
新着 長編
幽冥な花嫁
ルイ 3日前
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秋という季節がなくなったのかというほど暖かな日差しの差す、土日にくっついた至福の祝日。
看護の学びから解放された私は、昼下がりの倦怠に身を委ね、ベッドの上でだらだらと過ごしていた。
13時過ぎ、少し重たいカレーを胃に収め、歯磨きを終えると、再び至福の寝床へ。
スマートフォンを眺めるうち、まぶたが重くなり、抗いがたい眠気が全身を包み込む。意識は深い水底へと沈んでいった。
夢を見ていた。
その内容は輪郭が朧げだが、確かな違和感を残している。ひんやりとした麻の感触、輪になって揺れる影。
__そう、首吊り用の紐のようなものが、暗闇の中で眼前にぶら下がっていたような気がする。
ふと、意識が浮上する。まどろみと現実の狭間、重力から解き放たれたかのように、意識だけが宙を漂っている、最も無防備な瞬間。
グッ、と喉元に何かが鋭く食い込む感覚。温度の感じない、それでも締められると理解するほどの圧迫。一瞬で空気が遮断され、肺が酸素を求めて痙攣する。
同時に、耳の奥でキーンという、高周波の金属音が響き渡り、全身が鉛のように重く、動かなくなった。
___金縛り。
「またか」と、経験者特有の諦念が湧く。
しかし、今回は違う。首を絞められる、という未体験の恐怖が、冷静さを奪った。
どうにかしてこの金縛りを解こうと、全身の筋肉を内側から引き裂く勢いで藻掻くが、指一本も動かせない。
私は右向きに寝ていた。その石のように硬直した体の、左側。
動かないはずの左腕が、勝手に動いている。
否、動かされている。
強い力でグイグイと、肘から先を無理やり引っ張られているような、不自然な、奇妙な筋肉の軋みを感じた。
金縛り中、身体は動かせずとも、眼球だけは自由だ。私は重たい瞼をこじ開け、左腕があるであろう空間を凝視した。
そこに、私の腕はなかった。
あったのは、ちょうど人の手のひらほどの大きさの、黒いモヤ。
空間の歪みのような、闇の破片のような、輪郭の曖昧な黒い塊。それは、私の左腕を掴み、どこかへと誘うように、微かに揺らめいていた。
モヤを見たその瞬間、頭の中に鮮明なイメージがフラッシュバックする。黒髪が長く、顔は見えないが、妙に華やかな、紅い服をまとった女の姿。知人ではない。見たこともない、幽世の女性。
全身の血液が沸騰するような焦燥に駆られ、今度こそ金縛りを解こうと必死になった。
しかし、抵抗すればするほど、首の締め付けは強くなる。
意識は何か冷たいものに絡めとられ、引きずり出されているような、形容しがたい浮遊感と吐き気が襲う。まるで、貧血で意識を失う直前のような、あの世に片足を突っ込んだような心地悪さ。
だが、首を絞められているという恐怖はあったが、不思議とその女に対して「怖い」という感情はなかった。
ただ、心の中で「離せ!離せ!」と、魂の叫びを上げ続けた。救いを求めるように、形のない神々へ祈りを捧げた。
その時、パッと首の苦しさが嘘のように消え去った。一瞬の解放。
金縛りは解け、私は荒い息を吐きながら全身の自由を取り戻した。
左腕には、不自然な、筋肉を酷使した後のような妙な痛みが残っていた。
その出来事を、霊感の強い姉に話すと、彼女は事も無げに言った。
「あんた、それ素直について行ってたら、誰とも結婚できてなかったよ」
どうやら、私を連れて行こうとしたのは、私を「気に入った」神様に近い存在の幽霊らしい。
「この子、可愛いから連れて行こう」という、あまりにも身勝手で、純粋なまでの欲求。
私が恐怖を感じなかったのは、それが「神に近いモノ」だったから。姉曰く、「生きてるうちは誰とも結婚できなくて、死んだ後、その神様のものになる」運命だったのだという。
首を絞められたのは、私が抵抗したから、大人しくさせるため。少々過激で、執着心の強い幽世の花嫁だったようだ。
そして、姉は静かに告げた。
「あんた、こんなことが頻繁に続いたら、私と同じ見える人になるよ」
それが、私にとって一番の恐怖だ。
しかし、この怪談めいた話の真のクライマックスは、姉の次の言葉だった。
「次またそんなことがあれば、素直について行ってみなよ」
最終的に、姉が一番怖いという話になったが、一つだけ忠告しておこう。
寝ている時、意識が身体から引っ張られるような感覚があったら、警戒した方がいい。私のように、幽世の婿入り話を持ちかけられることになるかもしれないから。
そして、誰かの役に立ったら嬉しい豆知識、金縛りの対処法について。
金縛りは無理に解こうとすると、魂が身体から抜け、幽体離脱の状態になるそうだ。
また、金縛りには種類がある。疲労によるものと、霊的なもの。
見分け方は、目を開けたとき、そこに誰かがいるか、いないか。
疲労なら何もいない。
霊的なものなら、だいたい近くに「誰か」がいる。枕元とは限らず、足元や布団の中、姿は見えなくても触れられている感覚など、様々な方法で自分の姿をこちらに示してくる。
そういう時は、見えないふりをして目を瞑るのが最善の策だ。
私は気づかれると面倒なことになるため悟られないように、いつも一瞥だけして、そっとまた眠りに戻るふりをするのだ。
あなたも、安易に目を開けてはいけない。
闇の中から、あなたを見つめている何かに、気づかれるかもしれないから。
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