
長編
お礼をしたいので 2
しもやん 2022年3月31日
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2年ほど前の冬、御池岳からの下山途中に自殺するつもりだった女子大生を思いとどまらせたことがある(「お礼をしたいので」参照)。
その際に連絡先を交換していたのだが、いっさいやり取りはなかった。つい先週までは。2年ぶりに連絡をよこした理由は、わたしにお礼がしたいのだという。ぜひとも一度会って話したいのだという。
* * *
先週の日曜日、わたしは会合場所である木和田尾の登山口へ出かけていった。18:00指定だったので、30分前には林道終点の駐車場に着くように気を遣った。
木和田尾登山口は国道沿いの枝道の終点にあり、水源管理施設らしき建物のほかには一面枯れ葉の堆積した、この世の果てのような場所である。時間も時間なのですでにあたりは闇に包まれ始めており、初春の身を切るような風が身に堪えた。
約束の時間の15分前あたりで、わたしは不意に悟った。〈これはどうも担がれたな〉
木和田尾登山口は公共交通機関利用に適さない、鈴鹿山脈のなかでもかなりマイナーなルートで、たどり着くだけでも一苦労のような田舎だ。こんなうら寂しい山のなかへ、陽も暮れかけた時分に女子大生――2年前に21歳だと言っていたので、いまはもう社会人だろう――が一人でやってくるはずがない。多少の下心があったにせよ、なぜ真に受けてノコノコやってきたのか自分でも不思議だった。
それでも念のため18:30まで待つことにした。運転席の背もたれを倒し、見るともなしに本を読んで時間をつぶした。この日は風がやけに強く、車を揺さぶるくらいの勢いで荒れ狂っていた。音が気になって読書に集中できず、何度も同じ段落を読んでいるうちに抗いがたい眠気に襲われ始めた。
寝入っていたのはほんの10分以下だったと思うのだが、いやな夢を見た。手首を切れ味の悪そうな肉切り包丁で切り裂き、滝のように血を滴らせている女子大生を呆然と眺めている、という内容だった。傷は骨まで達していて、断面が生きもののようにぬらぬらと動いていた。女子大生の口は耳まで裂けていて、狂ったようにかん高い哄笑をまき散らしている。実にいやな夢だった。
運転席の窓をノックする音で目が覚めた。朦朧とした意識のまま、窓の外をぼんやりと眺めてみる。誰もいない。気のせいだったのか、それともノックした瞬間にどこかへ隠れたのか。
ドアを開けて外へ出た。やはり誰もいない。時間を確認すると、18:02すぎだった。なぜか彼女が時間通りにやってきたのだ、という確信めいた予感があった。登山口周辺は鬱蒼と茂った杉林で視界は悪い。どこにでも隠れられるスペースはある。なぜ隠れているのかはともかくとして。
街の灯の届かない山林なので、すでに真っ暗だった。5分ほど周辺を携帯のライトで照らしてみたけれど、堆積した落ち葉と枯れ枝があるばかりで、人間が隠れているような様子はない。それでもなんとなく、絶えず人の気配だけは感じられた。かすかな息遣いが聞こえてくるような気さえする。
埒が明かないので、思い切って会うことになっている女子大生へ電話してみた。12コールめあたりで諦めて切ろうとしたとき、誰かが出た。
「もしもし、桐谷ですが」
名乗ってみたが、返事はなかった。にもかかわらず、確実に誰かが電話口にいる。息を殺しているような気配がひしひしと伝わってくる。もしわたしを担いだのだとしたら、いまごろ彼女は自室のベッドに寝転がって笑いを噛み殺しているはずだ。ところが電話には絶えず風らしき雑音が入ってきている。明らかに野外で電話を受けているとしか思えない。
スマートフォンをスピーカーに切り替え、何度も呼びかけてみた。次第に返事らしきものが聞き取れ始めた。外は風が強いので運転席へ戻り、音量を最大にあげてじっと耳をすませた。
「あたしは後ろにいるよ」
声は電話と後方から同時に聞こえたような気がした。思わず振り返った。後部座席には誰もいない。電話も切れていた。もうかけ直そうとも思わなかった。約束の時間に集合場所へきたけれど、落ち合えなかった旨をSNSを経由して送り、車を始動させた。
1秒たりともこの場にいたくなかった。
エンジンを何度もかけ直さなければならないようなこともなく、車はスムーズに走り出した。
去り際、バックミラーに一瞬、人が映ったような気がした。朝夕はセ氏一桁まで下がる3月だというのに、キャミソールとホットパンツという場ちがいな格好をしていて、顔には暖色系のアイシャドウを施しているのがはっきりわかった。あるいはそのように見えただけなのかもしれない。
* * *
その日の夜、彼女から連絡がきた。以下にはSNSで受信した内容を原文ママで掲載する(絵文字や感嘆符は省略。また個人名は仮名とした)。
女子大生 今日はありがとう。会えて嬉しかったです。
わたし 佐伯さんは集合場所にいなかったと思いますが。
女子大生 会えたよ。車にも乗せてもらったし。
背筋に冷たいものが走った。チャットを送った瞬間既読がつくのも気色が悪い。真っ暗な部屋で、スマートフォンにかじりついている女子大生の不気味な姿が脳裏をよぎった。
頭をひねった挙句、これがくだらないペテンであることを見破る方法を思いついた。
わたし へんなこと聞きますが、今日ぼくがどんな格好をしてたか教えてください。
女子大生 上はベージュ色のロングコートと白のセーター、下は細めのデニムでしょ?
その通りだった。科学的に説明のつかないなにかが起きている。彼女は集合場所にいたのだ。どんなかたちでそこにいたにせよ。急に怖くなってきて、ついに返信しないまま放置してしまった。
* * *
いまのところ、それっきり彼女から連絡はない。
あとで冷静に考えてみると、べつに恐れることなどなにもなかった。おそらく女子大生は現場にいたのだろう。わたしを驚かせようと画策し、巧みに杉林のなかに隠れていたのだろう(なぜそんなマネをするのかは不明であるが)。
そうやって自分を納得させる反面、彼女はもうこの世にいないのではないか。わたしにはそう思えてならない。
もしまた連絡があるようなら、顛末を載せたい。
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