
その峠道は、地図アプリでも名前が出ない。仕事で地方の現場に呼ばれ、終電を逃した俺は、レンタカーで山を越える羽目になった。ナビが「最短」と言い張るルートは、街灯も民家も消え、ヘッドライトの円だけが世界を切り取っていた。
霧雨がフロントガラスに細い線を引く。ワイパーが払っても、すぐに戻ってくる。山の匂いに混じって、焦げたような甘い匂いがした。焼けた杉葉、みたいな。
カーブの先、路肩に立つ人影を見つけた。白っぽいコート、長い髪。こんな時間に歩くには不自然な格好だ。反射材もライトもない。事故でもあったのかと思い、速度を落とした。
近づくほど、妙な違和感が増す。背中がやけに広い。肩のあたりが、コートの下で不格好に盛り上がっている。荷物を背負っているのか? それにしては左右に張り出しすぎていた。
追い越しざま、窓越しに横顔が見えた。若い女、というより「若いものの皮を被せた何か」。肌は白いのに、目の周りだけが湿った土みたいに黒い。視線が、ライトではなく俺の運転席に吸い付いていた。
俺は反射的にアクセルを踏んだ。すると、バックミラーに、女が振り返るのが映る。振り返りの動きが遅い。首だけではなく、背中全体が、ぎこちなく追従する。コートの膨らみが揺れ、布が引きつる。
次の瞬間、ミラーの中の女の肩から、細い影が数本、ぬるりと伸びた。枝。いや、枝に似た“指”。節くれ立った黒い棒が、コートの縫い目を押し広げて外に出ていく。雨粒がそれに触れ、ぱちぱちと弾けた。
喉の奥が冷たくなる。見間違いだ、と脳が言うより先に、車が勝手に減速した。エンジンの回転が落ち、アクセルが重くなる。燃料計は十分あるのに、メーターが一瞬だけ「EMPTY」に跳ねた。
スマホが振動した。圏外のはずなのに通知が出る。「近くに危険があります」。地図アプリの警告だ。表示された地点は、今いる場所ではない。ひとつ前のカーブ――女を見たあたりに赤いピンが刺さっている。ピンの名前は、読めない文字列で、最後だけが日本語だった。
「…枝、落ち」
寒気が背骨を走った。次のカーブで、道に何かが落ちているのが見えた。木の枝の束。避けようとハンドルを切った瞬間、枝束が“ほどけた”。束じゃない。細い棒が絡み合って、こちらへ這うように広がったのだ。
タイヤがそれを踏む。ごつん、と鈍い衝撃。枝が跳ね、車体の下へ潜り込む。続けて、車がぐらりと揺れ、左後ろが沈んだ。何かに引っかかった。
後日談:
後日談はまだありません。
この怖い話はどうでしたか?
chat_bubble コメント(0件)
コメントはまだありません。


