
記録者について、先に断っておく。
私は、あの工場の人間ではない。少なくとも、今はそういうことになっている。
八ヶ月前の出来事だ。だがいまも、休憩室で紙コップのコーヒーを口に運ぶとき、必ず手が止まる。スチール棚の陰に、何かが立っている気がする。振り向いても誰もいない。けれど振り向かないという選択肢が、最初から用意されていない。
あの工場には「最後の繋ぎ役」がいると言われていた。
古株は別の名で呼んでいたが、私は聞いた瞬間に忘れた。忘れたというより、頭のどこかが拒んだ。
死者と話す者。そう理解すれば足りる。
表向きには七年前に途絶えたことになっている。工場長の倉持が倒れ、手順も記録も残さず、役目は消えたと。だが事故が起きるたび、夜勤明けの更衣室の奥、鍵のかかっているはずのロッカーが開いているという話が繰り返された。
そこへ声をかけに行けるのは、死んだ作業員の直属の上司だけだと、誰が決めたのかも曖昧なまま信じられていた。
父が死んだのは六月の初旬、第三ラインのプレス機の点検中だった。
私は葬儀を終えたあとも実家に戻らなかった。弟が言い出したからだ。
「まだ聞いてないことがある」
父の職場へ行くと言った。
死者が答えを持っているはずがない。
そう言いかけて、やめた。弟の目が、父のそれと同じ形をしていた。
工場の敷地の外れに古い詰所があった。
「資材置場」と書かれたプレートが斜めに下がっている。
弟がドアを開けた。私はその背後に立っていた。
中には蛍光灯が一本だけ灯り、パイプ椅子に男が座っていた。六十代。作業着。腕が太い。目は閉じているのに、こちらを見ている気がした。
「何を知りたい」
弟が父の名前と配属ラインを告げる。
男は顎だけでうなずき、背にもたれ、目を閉じた。
どこからか低い振動音が響いた。工場の稼働音ではない。もっと遠く、地面の下からくるような音だった。
男の喉が鳴る。
「……暑いな」
弟が肩を震わせる。父の癖だった。
私は何も言わない。
「第三ライン、配電盤。右側のカバーが緩んでいる」
弟が何度も頷く。
私は、男の手を見ていた。握り拳を作っている。指の関節が白くなっている。
その瞬間、男の首がこちらへ回った。目は閉じたままだ。
「お前も来ていたか」
胃の奥が冷えた。
「給湯室の奥で」
言葉はそれだけで途切れた。
入社した年、私は短期間だけ同じ現場に入った。給湯室で父と目が合った日、私は視線を逸らした。挨拶をしなかった。父は何か言いかけて、やめた。
男の体が震えた。
「来ている」
後日談:
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