
五年前に、ダムの底で人が消えた。
事故報告書にはそう記されている。名前も役職も、原因も簡潔に処理され、現場は通常運転に戻った。私が引き継いだのは、計器の配置と巡回経路と、夜間監査廊の癖だけだった。
監査廊は、音が遅れて届く。
足音は一拍遅れ、換気ファンの低音は壁の内側で反響し、どこから鳴っているのかわからなくなる。懐中電灯を振ると、配管の影が遅れて追いかけてくる。その遅れに慣れるまで、誰でも一度は立ち止まる。
異変に気づいたのは、捜索が打ち切られてしばらく経ってからだ。
深夜巡回の最中、頭上の配管の奥に、視線のようなものを感じた。形はない。ただ、見られているという感覚だけが、決まって同じ場所で起こる。懐中電灯を向けると、そこにはコンクリートの染みと、油で黒ずんだ梁があるだけだった。
その夜の点検は正常だった。
警報も誤差もない。だが、違和感だけが残った。
以降、夜勤のたびに同じ感覚があった。
放流ゲートの駆動室。最も油圧の高い配管の裏側。必ずそこだった。危険はない。音も動きもない。ただ、そこに「注意を向けられている」感じがする。他の所員も、監視カメラも、何も検知しない。異常値は一切出なかった。
私はそれを、現場特有の感覚だと処理した。
巨大構造物の内部に長時間いると、脳が勝手に意味を探し始める。そういうものだ。
管理システムが更新され、制御室の様相が変わってからも、その感覚は消えなかった。本社の技術者を案内している最中、サーバーラックの隙間に、同じ圧を感じた。技術者の手元に集中すべきなのに、意識がそこから離れない。彼らが帰ったあと、点検ログを確認しても、数値はすべて許容範囲内だった。
完全自動化工事が始まり、巡回は最低限になった。
久しぶりに大雨警報で泊まり込んだ夜、違和感はこれまでになく強かった。圧迫されるような感覚が、制御室全体に広がっていた。視線は、私の操作でも、計器でもなく、虚空の一点に固定されているように感じられた。
確認しようと一歩踏み出した瞬間、感覚が移動した。
蜘蛛が這うように、配管伝いに天井方向へ逃げた気配。自動制御ユニットの上で、作動ランプが一瞬だけ不規則に点滅した。警報は鳴らない。ログにも残らない。ただ、耳の奥で、低い反響音が膨らんだ。
それ以来、監査廊は変わった。
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