
その記録は、ある音響技師が廃業を決めた際、馴染みのバーで「一度だけ、機材では説明できないノイズを拾った」と語った断片に基づいている。
舞台は、都心の再開発地区に建つ最新のデータセンター。そこは二十四時間、空調の唸りとサーバーの排熱が支配する人工的な静寂の空間だった。建物の最上階、四十四階にある一角だけは、フロアプランの都合で歪な形をしており、夜になると非常灯の青白い光が、鏡面仕上げの床に鋭い筋を描く。壁の向こうに広がる夜景とは切り離された、真空のような場所だった。
そこで保守点検を担当していたのは、三十代の女性技術者だった。彼女は極めて論理的で、音響工学の学位を持ち、感情を仕事に持ち込まない。同僚との付き合いも最低限で、彼女にとっての「平穏」とは、予測可能な数値に囲まれていることだった。
違和感は、秋の入り口に始まった。彼女が深夜、特定のラックの前を通るたびに、高精度のノイズキャンセリング・ヘッドフォン越しに、奇妙な「圧力」を感じるようになったのだ。計測器には異常はない。だが、耳の奥で、鼓膜を微かに押し返すような、不規則な振動が起きる。
最初に彼女以外の言葉でその異変が裏付けられたのは、警備員の何気ない一言だった。深夜の巡回時、そのフロアの隅から「ガラスを爪で弾くような音」が聞こえる気がする、というのだ。
彼女はその報告を一笑に付さなかった。むしろ、その音が聞こえる周期や周波数帯を徹底的に特定しようと試みた。そして、自身の端末に蓄積されたログの中に、本来そこにあるはずのない波形を見出した。
彼女が感知したものは、単なる音ではなかった。それは、デジタル空間のノイズが実体化したかのような、冷たい情報の塊だった。ヘッドフォンのノイズ除去機能が限界を超え、フィードバックとして返ってくる「声」に近い振動。その背後には、常に一つのサーバーラックが沈黙していた。古い型番で、中身は空のはずの筐体。だが、その内部には、光を反射しない「重み」がぎっしりと詰まっている感覚があった。
夜を追うごとに、その振動は解像度を上げていった。最初は単なる圧力だったものが、特定のパターンを持ち始める。波形モニターには、人の指が絡み合ったような複雑な干渉縞が浮かぶ。解析しようとすると、ソフトウェアが原因不明のフリーズを起こし、どこまでが機械のノイズで、どこからが「それ」の干渉なのか判別できなくなる。
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