
深海は、最初から静かだったわけではない。
静かになってしまったのだ。
田所は、海底調査会社の現場要員として十年以上働いている。調査船の中で目を覚ますと、いつも同じ音が聞こえる。低く唸るエンジン音と、通信機の無意味なノイズ。かつては胸が高鳴った。未知の沈没船、誰も見たことのない遺物。人類史の空白を埋める仕事だと信じていた。
だが、いつからか報告書を書く意味が分からなくなった。
見つけても、引き揚げられない。
記録しても、誰も読まない。
写真を撮って、番号を振って、それで終わりだ。
ある日、田所は気づいた。
最近、沈没船が増えている。
事故の報告はない。嵐もない。戦争も起きていない。それなのに、調査範囲の海底には、昨日まで存在しなかったはずの船が沈んでいる。貨物船、漁船、時には小型の客船。どれも記録上は「未確認」。来歴が空白のまま、そこにある。
「気のせいだろう」
そう思おうとしたが、違和感は消えなかった。
船体が新しすぎる。
錆び方が揃いすぎている。
そして何より、沈み方が揃っている。
まるで、決まった手順で沈められたようだった。
本社からの通達は簡潔だった。
競争体制を導入する。
成果を数値化する。
調査員を二班に分ける。
田所は北海チームのリーダーに任命された。理由は不明だ。実績でも年功でもない。ただ名前が呼ばれた。それだけだ。もう一つの班は南極チーム。リーダーは村山。同期だが、特別親しいわけでもない。
競争が始まると、現場の空気は変わった。
誰が先に見つけるか。
誰が先に記録するか。
引き揚げは後回しだ。とにかく「発見」だ。
田所は次第に、調査の対象を見る目が変わっていくのを感じた。
船を、船として見なくなった。
ただの成果物、数値、記録対象。
ある日、深度計が異常な反応を示した。
通常の航路ではありえない地点。
しかも、浅すぎる。
潜航すると、そこには沈みきっていない船があった。
まだ浮力を失いきっていない。
船内灯が、微かに点いている。
田所は息を呑んだ。
無線を入れようとして、手が止まる。
規定では、未沈没船は対象外だ。
事故報告が優先される。
だが、競争の規定には、そんなことは書かれていない。
後方で、別の光が揺れた。
青い照明。
南極チームだ。
「こちら北海チーム。対象を確認した」
反射的にそう口にしていた。
通信を切ると、船はゆっくりと傾き始めた。
誰が何をしたのか、田所には分からない。
ただ、数分後、船は完全に沈んだ。
浮上後、記録は完璧だった。
沈没船一隻。
原因不明。
発見者、北海チーム。
後日談:
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