
梅雨のツアーは機材が乾かない。ケースを開けるたび、雨と汗と布の匂いが混ざって鼻の奥がむずむずする。
私は三十一歳、照明の仕込み担当。地方の公共ホールを回っていると、舞台袖の壁紙の色まで似てきて、今どこにいるのか一瞬迷う。
その日入ったのは九州の港町の文化会館だった。搬入口で鍵を受け取ると、受付の女性が小声で言った。
「鏡のある廊下、あんまり覗き込まないでください。昔ここで歌ってた人がいて、たまに居残るんです」
冗談めかしているのに目が笑っていない。
「若い子が多い日ほど、変なことが起きやすいって。派手な飾りとか、ライトとか、楽屋前に出さないで。見えると寄ってくるらしいから」
揉め事は避けたい。うちの楽屋は元から地味だ。私は「了解です」とだけ返した。
仕込みの途中、ロビーで別グループのスタッフが大きなリングライトを抱えているのを見た。若いアイドルの撮影用だろう。鏡の廊下の方へ消えていく。注意しようとして、やめた。私が口を出す筋でもない。
夕方、リハが始まった。暗転と点灯を繰り返し、私はブースでフェーダーを触っていた。
インカムにザーッという雑音が混じった。雨音みたいなノイズの奥に、かすれた歌声が短く乗る。誰かがスマホで流したのかと思ったが、周りは無言だった。
休憩に入るとロビーがざわついていた。アイドル側のマネージャーが受付に詰め寄っている。
「楽屋の鍵が開かない。中で配信してた子らが出てこない。通知音だけ鳴ってるんです」
受付の女性は青い顔で、さっきよりずっとはっきり言った。
「鏡の前に立たせました? 光るもの置きました? ここは見られたがるんです。代わりがいると、引っ張るみたいに」
警備員と鏡の廊下へ行くと、突き当たりの姿見の前でリングライトが倒れていた。電源が入ったまま、白い輪だけが床を照らしている。
鏡には誰も映っていない。代わりに、奥行きの深い暗闇が広がっていて、覗くと自分の顔が遅れて浮かぶ。動画の読み込みが遅いみたいに、表情だけがワンテンポずれる。
楽屋のドアを工具で開けた。中は空だった。椅子もテーブルもそのまま、ペットボトルも半分残っている。スマホが三台、配信画面を映したまま。画面の中でも、誰もいない部屋が映っていて、その奥の鏡だけが黒く沈んでいた。
ピントが迷った瞬間、スピーカーから歌声がはっきり漏れた。言葉は分からない。ただ息継ぎのたび、笑っているみたいに聞こえる。
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