
これから語るのは、カワセ氏(仮名)から打ち明けられた、不可解極まる体験談である。
その晩、私はカワセ氏の仕事部屋で、向かい合って静かに茶を啜っていた。簡素な棚に並ぶ文献や資料の山。仕事机の上には付箋だらけのノートが何冊も開かれたまま放置され、彼の探求の軌跡を物語っていた。窓外の月明かりが僅かに差し込み、二人の輪郭を壁に浮かび上がらせていた。
カワセ氏は民俗学の研究者で、各地の廃村や離島を訪ね歩き、老人たちから失われつつある言い伝えを採集することに没頭していた。なぜその土地に伝承が生まれたのか、どのような信仰が根付いていたのか。それらを記録し、学術論文として発表する計画だったという。彼の情熱は部屋中の古い地図や聞き書きメモからも察することができた。
「しかし、そう簡単に昔話など聞かせてもらえるのですか?」
私がそう尋ねると、カワセ氏は穏やかに笑い、部屋の隅に置かれた缶詰の箱を指差した。
「秘訣がありましてね」
砂糖菓子と缶詰を手土産に持参すると、老人たちも意外と心を開いてくれるのだという。初めは訝しげだった相手も、甘いものを口にすると徐々に表情が和らぎ、若い頃の奇妙な体験や集落で代々語り継がれてきた禁忌について話し始める者が増えるらしい。ある者は震える声で、ある者は懐かしむように、記憶の断片を口にするのだという。
甘味は万国共通、人の警戒を解く道具であるらしい。カワセ氏が収集した伝承の中には、海で遭難しかけた漁師の話、山で道に迷った木こりの話、さらには幼い頃に消えた友人の話など、多様な内容があったという。それぞれの証言には土地固有の感覚が織り込まれており、どれ一つとして同じ語り口のものはなかった。
「変わった経験を持つ方とか、いらっしゃらなかったのですか?」
私がそう水を向けると、カワセ氏はしばらく黙り込み、湯呑みを両手で包んだ。その表情は普段より沈んでおり、何か思い出したくないことを掘り起こそうとしているかのようであった。もしかすると、彼の調査の中で遭遇した、他の証言とは一線を画す何かを思い返していたのかもしれない。その刹那、彼の瞳には何かを恐れるような影があった。
「記録に残せない話というのがありましてね……明らかに妄想としか思えないものとか、錯乱した者の言葉です」
カワセ氏は一度湯呑みを傾け、そして静かに置いた。湯気が立ち上り、天井へと消えていく。彼は何かを覚悟したかのように、再び言葉を継いだ。
「聞かせてください!」
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