
長編
潮鳴様
匿名 2025年7月13日
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日が沈みきる数分前の空は、光の名残を惜しむように金と藍の層を織り交ぜていた。
その下で、三人の男たちが海に浮かんでいた。
AとBは波待ちをしながら談笑している。
「なんだかんだで、久しぶりだな」「そうだな、三人揃うのは二年ぶりか?」
――けれど、Cは笑っていなかった。
沖を、見ていた。
その目は何かを見ているようで、何も見ていない。
次の波が来る前に、Cはゆっくりとボードから足を下ろした。
そして、海から上がると、無言で砂浜を歩き始めた。
「……おい、C?」
Aが声をかけた。反応はなかった。
ボードも濡れたスーツもそのまま、Cはそのまま砂丘の向こう――森へと入っていった。
AとBはあわてて追いかけた。
その時点ではまだ、「変なことになった」とは思っていなかった。
Cが体調を崩したとか、何か急に思い出したとか、そんな類の事だと――
だが、森に入った瞬間、空気が変わった。
音が遠い。風もない。
木々の間を縫うような道はなく、ただ鬱蒼とした緑が口を開けていた。
そして、そこには**地図にないはずの“奥行き”**があった。
Cの姿は見えない。
足音も、影も、残っていない。
AとBは何も言わず、ただその場に立ち尽くしていた。
「……なあ、A……」
「ん」
「なんか、波の音、聞こえねぇか……?」
Aは一瞬、聞こえないと答えようとした。
だが、耳を澄ますと――確かにそれはあった。
この森の奥から、潮が満ちるような音が、波打ち際のように、ゆっくりと近づいてくるのだった。
AとBは小走りで引き返した。
森の奥には進まなかった。進めなかった。
戻る途中、振り返ったAは、視界の隅に白い影を見た気がした。
――風で揺れる布のようだった。
――それとも、人のようだった。
海に戻ると、空はすっかり夜だった。
Cの姿はなかった。
波の音だけが、深く、静かに、満ちていた。
警察の報告は、簡潔だった。
「30代男性・C氏が海岸から離れ、森に入ったまま戻らず。目撃者は二名。
遺留品はサーフボードとウェットスーツ一式。森に足跡なし。」
佐原敬一は、その報告書を読みながら無意識に額に触れていた。
現職の警察官ではない。彼は「補助員」だ。
県の文化財保護課と提携した、民俗信仰や土着伝承に関わる「調査対象」の一次判定要員。
人が“理屈ではない何か”に触れたとき――佐原の出番が来る。
彼はその日、単身で表浜の海岸へ向かった。
⸻
風はほとんどなく、砂は乾いていた。
日中でも人影はまばら。
波は低く、だが何かを孕んでいるように、重く滑らかに打ち寄せていた。
AとB――事件当日の目撃者に会うことはできた。
Aはどこか虚ろで、話しかけても返事が途切れがちだった。
Bの方がまだ冷静だったが、彼の語る内容は――地図にない森、潮の音、祠――あまりにも現実離れしていた。
だが、佐原は「ありえない」とは思わなかった。
民俗の現場において、信じがたい話ほど“本当のこと”に近い。
⸻
Bの案内で、森とされる場所へ向かった。
不自然な小高い丘とその向こう。
確かに、そこには木々の影が連なっていた。
地図には何もない。航空写真にも何もない。
それでも、“ある”のだ。ここに。
佐原は木立に足を踏み入れた。
風が止む。
空気が変わる。
音が吸い込まれるように遠ざかる。
GPSは正確に動いていたが、彼の五感は確実に“ずれていた”。
そこに「祠」があった。
⸻
それは、崩れかけた木造の小さな社だった。
扉はない。内部には何も祀られていない。
ただ、土間にいくつもの貝殻と、干からびた海藻のようなものが落ちていた。
「……これが海から来たっていうのか……?」
佐原は膝を折り、周囲を記録しながら、何か“視線”のようなものを感じた。
祠の奥。木の幹の間。
そこに白い何かが揺れていた。
風ではない。
光でもない。
だが、確かにそれは「そこにいた」。
その時――声がした。
「ここは うみのかわり」
「あなたのこと もう わすれてしまっているのに からだが おぼえているの」
「だから はいりなさい おまえも しずんで」
耳ではなかった。
頭の奥、もっと深いところ――血が流れる感覚そのものに、声が“届いた”。
佐原は思わず数歩、後ろへ下がっていた。
祠の奥は暗く、波のように何かが満ちていた。
だがそこには水はない。
地面は乾いている。
それでも、足元がじわりと沈んでいく感覚があった。
彼はそれ以上は進まなかった。
あるいは、進めなかった。
⸻
海に戻った時、空はもう茜色に傾いていた。
波は変わらず、静かだった。
だが、佐原の耳には、それが遠い太古の神の心音のように聞こえていた。
彼は報告書にこう記すしかなかった。
「地質的には異常なし。現地に祠の痕跡。海との関連性不明。
潮成(しおなり)神社跡との関係を今後調査。」
だがそれは、建前だった。
彼はもう知っている。
この地には、“還る場所”がある。
神が棲む、海ではない海が。
あの日以来、Aは海へ行っていない。
海を見ると、心臓が締め付けられるのだという。
医師の診断では「急性ストレス反応」、つまり心因性の不調。
けれど、A自身は違うと感じていた。
「違うんだよ、怖いとかじゃない。……ただ、あの波の音が、俺の中にあるんだ。ずっと前から、そこにあったみたいに。」
Bは街を出た。
何も告げず、数週間後に引っ越していた。
LINEには既読がつかず、電話も繋がらなかった。
佐原はBの居場所を調べ、転居先を訪ねた。
出てきたのはBの母親だった。
彼女はひどく疲れた顔でこう言った。
「……あの子、夜中にね、“耳が濡れる”って言うの。寝てても急に飛び起きて、頭を振るのよ。まるで、耳の奥に……波が入りこんでくるみたいだって。」
――海の記憶。
――体の奥に染みついた“神の音”。
佐原は、それを“共鳴”と記録した。
信仰の記憶。あるいは、存在の侵食。
その夜、佐原も夢を見た。
祠の前。森の中。
地面に横たわる白い布のようなもの。
近づくと、それは人の形をしている。いや、“人だったもの”。
呼吸も、言葉もない。
ただ、そこに横たわっている。
波の音が、空から降ってくる。
潮の満ち引きではない。
肉の中に入りこんでくるような、海の音。
ふいに、白いそれが顔をこちらに向けた。
目がない。口がない。
だが、確かに“見て”いる。
「……おぼえているね」
「きたこと、あるね」
「なぜ わすれたの」
佐原は立ち尽くしていた。
言葉も出ない。
その時、彼の足元に水が満ちていた。
暗く、重く、冷たい。
それは水ではない。血かもしれない。記憶かもしれない。
そして、声がした。
「おまえも しずむ」
「おまえのなかに わたしがいる」
「だから しずんで」
――目が覚めた時、シーツが濡れていた。
汗ではなかった。塩の匂いがした。
その日の夜、佐原は地元の資料館で古い記録に目を通していた。
何度も出てくる名――
潮成(しおなり)大人(うし)
それはこの地にかつて祀られていた、“海神とされるもの”の異称。
人の姿にして人にあらず。
潮の道を歩み、海の代わりを持ち、時折「人を呼ぶ」。
「潮成大人の祠、今は森に埋もれ。かつては白布をもって海辺に現る。
女のかたちをとるが、見てはならぬ。声に返してはならぬ。
呼ばれた者は、しずむ。」
呼ばれる。忘れられる。還る。
――それはただの古い話ではなかった。
佐原は思った。
これは祟りではない。再会なのだ。
人が神を捨てたのではない。
神が人を、待っていたのだ。
佐原は潮成神社旧跡とされる場所を探した。
かつての地元資料では、その名が頻出していたが、現在の地図には存在しない。
だが文献の交点――海と森の境、かつて“表の海”と呼ばれていた区域の北端――そこに、忘れられた小さな石碑があった。
苔むしたその表面に、かろうじて読める文字がある。
「潮成大人 此処に鎮まる」
「水無くとも 波在りて」
「忘るること 封ずることなり」
忘れられることが、封印。
記憶が断たれた時、神もまた眠る。
だが、人々は再びその土地に踏み入れ、波を感じ、思い出し始めてしまった。
佐原は、Aの自宅を訪れた。
部屋はカーテンが閉じられ、昼でも薄暗い。
Aはもう、普通の話ができる状態ではなかった。
言葉をつなげようとすると、喉を抑え、苦しそうに呼吸する。
しばらくして、Aが囁くように言った。
「……夢を見るんだ」
「自分の体が、誰かのものになってる夢」
「波の中に、なにかいる……。
俺の中から、出てこようとしてるんだよ……あいつが」
Aは指で、耳の中をさすった。
鼓膜の裏から、誰かが囁いているのだと。
佐原は、それを聞きながらも、自分の中の“理解”が進んでいるのを感じていた。
かつて、潮は鳴った。
それは文字通りの話ではない。
神が通った場所には、音が生まれる。
風がないのに木が揺れ、波がないのに耳が濡れる。
それはすべて、「彼女」の通り道。
資料にはもう一つ、奇妙な注記があった。
「潮成大人は女のかたちをとりて、人を迎えに出づ。
呼び声は人を恋いしうたのごとし。
されど、その正体は“神”にあらず、“神の皮を被りしもの”と記されしもあり。」
神ではない。
では、何か。
佐原は、それを人間の言葉で表すことに躊躇した。
なぜなら――彼女は、名前ではなく“感覚”だからだ。
波の記憶、潮の重さ、体に染みた塩の記号。
それを総じて、**“シオナリ様”**と呼ぶのだ。
その夜、再び夢が来た。
佐原は森の中、裸足で歩いていた。
足元はやはり乾いていたが、沈んでいた。
彼の体がゆっくりと“何かに”吸い込まれていく感覚。
前方に、白い姿があった。
布でも、人でも、神でもない。
ただ、そこに“在る”。
「……おまえは しっていた」
「むかしも ここに いた」
「だから おぼえている」
「だから しずんで」
佐原は、名を呼んだ。
呼んだ覚えはないのに、呼び方を知っていた。
「シオナリ様」と。
すると、白いそれがゆっくりと近づいてきた。
足はない。動いていない。
けれど、確実に距離が詰まってくる。
声にならない波が響く。
「……ようやく きてくれた」
「もう さみしくない」
「もっと きて……ねえ……」
その時、佐原の意識が深く沈んだ。
水でも闇でもない。
ただ、“懐かしさ”のかたまりのようなものに、身を預ける感覚。
――彼は、神に近づいていた。
――彼は、神に“思い出されて”いた。
そしてその日、豊橋市南部でもう一人の行方不明者が出た。
年配の釣り客。遺留品は砂浜に残った長靴のみ。
それを聞いた佐原は、何も言わなかった。
ただ、海の方を向いて、静かにまぶたを閉じた。
波が鳴っていた。
――シオナリ様が、また呼んでいる。
夜明け前。
空と海の境がわからない時間。
佐原敬一はひとり、森の奥へと入っていった。
風はなかった。
鳥の声もない。
ただ、自分の足音だけが、木々に押し戻されるように、重く響いた。
あの祠は変わらずそこにあった。
朽ちたまま、沈黙を守っている。
だが、佐原にはわかっていた。
ここが終点だ。
潮の匂いはない。
けれど、鼻の奥に塩が刺さる。
皮膚がぴりつく。
耳の奥で、“あの波”が鳴っている。
祠の奥には白い何かが、今日も“在る”。
彼は静かに膝をついた。
そこに祈る気持ちはなかった。
ただ、認めるためだった。
自分は“知っていた”。
かつて、ここに来た。
あるいは、この神に“選ばれた”ことがあった。
「なぜ わすれたの」
「なぜ うみを でたの」
「わたしは ここにいたのに」
「いつも よんでいたのに」
その声は、女のようにも、老いたもののようにも、風のようにも聞こえた。
けれどどれでもない。
それは、神の“感情”だった。
「さみしいの」
「わたしを みて」
「あなたを しってる」
「だから はいりなさい」
「あなたも しずんで」
佐原は立ち上がった。
祠の奥へと、一歩踏み出す。
木の床は朽ち、足元が沈む。
だが、怖くはなかった。
――ああ、そうか。
ここは“海”だった。
この森も、祠も、記憶も、
すべて、海のかわりだったのだ。
奥に立つ白い姿が、ゆっくりと、手を伸ばす。
その指先は溶けるように空気に消え、代わりに波音が満ちてきた。
佐原の耳がふさがる。
鼻と口に潮が入る。
だが苦しくない。
それは、帰る感覚だった。
彼は、最後にこう呟いた。
「……もう、忘れないよ」
そして、静かに、沈んでいった。
⸻
その日、森の入口にて、警察が一人の男の靴と手帳を発見した。
手帳の最後のページには、震えるような字でこう記されていた。
「潮は鳴っている」
「ここは 海のかわり」
「シオナリ様が わたしを覚えていた」
「だから わたしも 思い出した」
「神は 孤独だった」
「だから しずんだ」
それ以降、森の中に入った者はない。
いや、入ったのかもしれないが――戻ってはこなかった。
海は今日も、何もなかったかのように、静かだった。
けれど耳を澄ませば――
どこかで、潮が鳴っている。
後日談:
- 以前別の怪談サイトにも投稿した話です。
この怖い話はどうでしたか?
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