
梅雨に入ったばかりの福岡で、私は市バス通いをしていた。フリーの字幕制作を始めて半年、家だとだらけるから、天神の小さなコワーキングに毎日顔を出す。バスは混む。だから私はいつも、いちばん後ろの降車口の近くに立つ。乗り込む場所も、つり革の位置も決まっている。降りたらコンビニでアイスコーヒー、イヤホンを刺して、今日やる動画の段取りを頭の中で組む。そういうルーティンがないと、雨の日は心まで湿ってくる。
変だなと思ったのは、六月の二週目の月曜だった。背中の少し右に、同じ人が立っている。四十代くらいの男で、仕事帰りっぽい格好でも学生でもない。目立つ顔じゃないのに、妙に覚えやすかった。胸ポケットにペンが何本も刺さっていて、片耳にイヤホンじゃなく小さな受話器みたいなものをつけていたからだ。
最初は気にしなかった。通勤時間なんて同じ人が乗るのは当たり前だし、私も同じだ。でも二日、三日と続くと、偶然の形が崩れてくる。私が立つと、男が少し遅れて同じあたりに来る。混んでいても、空いていても、距離が変わらない。降りるときも、私の一歩後ろを同じペースで歩くことがあった。
決定的だったのは、バスの窓に映ったものだ。男の手の中に、親指サイズの小さな機械が見えた。スマホじゃない。黒くて四角くて、上に丸い穴がひとつ開いている。赤いランプが、雨粒みたいに弱く光っていた。私は機械に詳しくないけど、あれが録音する道具だと直感した。音を拾うための穴と、録っていると知らせるランプ。そういう感じがした。
背中の汗が冷えて、首の後ろがぞわっとした。私は咳払いをした。わざとバッグのファスナーを派手に動かした。男は何も反応しない。ただ、視線だけが私の髪のあたりをなぞっていた。見られているというより、測られている感じ。息の仕方まで数えられているみたいで、呼吸が浅くなる。
次の日から、バスを一本早いのに変えた。停留所もひとつ手前から乗った。立つ位置も前のほうにした。三日間は平和だった。やっぱり考えすぎだったのかも、と自分を笑いそうになった四日目、乗った瞬間に胃が沈んだ。男が、前の席に座っていた。座り方まで落ち着いていて、私が乗り込むのを知っていたみたいに、視線だけを上げてすぐ戻した。
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