
十二月の終わり、編集部の暖房が壊れて、私はダウンを着たままヘッドホンで作業していた。二十八歳。ローカル局の番組を切ったり貼ったりするだけの仕事に慣れた頃から、音だけが妙に気になるようになった。笑い声の余韻、マイクに乗る唾の音、誰もいないスタジオの空調。画面より、そういうものの方が生々しい。
副業で短い音声ドラマを作っていて、声のコラボ相手を探せるアプリに登録した。プロフィールに「環境音が好き」と書いたら、すぐに「凪」という名前の人からメッセージが来た。文章は丁寧で、やたら具体的だった。「港の防波堤、夜三時、冬の波は鉄をこするみたいに鳴ります」。添付されたデモは、潮騒と低い声。途中で、私の部屋の冷蔵庫が鳴る音が混じっていた。偶然だろう、と自分に言い聞かせた。
やり取りはだいたい音声だった。彼の声は近いのに、何か薄い膜が挟まっているみたいで、聴き返すたびに少しだけ違って聞こえる。私は「いつ録ってるの?」と聞いた。返事はすぐ来て、「録音というより、そこに残っている音をあとから掬い直してる感じです」。変な言い回しだと思ったけど、今さらアプリをやめるのも面倒で、彼の提案に乗った。冬の終わりに閉鎖される小さな島のフェリー。最終運航の前日に、試運転で一便だけ走る。そこで波の音を録ろう、と。
約束の日、雪は止んでいたけど港は灰色で、観光客もいない。私は開始の二十分前に着いて、売店のシャッターに寄りかかってコーヒーを飲んだ。海からは、金属をこすったみたいな音がずっとしている。彼が言っていた表現が、勝手に耳の中で再生されるのが怖かった。
人影が近づいてきた。黒いレインコート、フード、マスク。手には小さなレコーダー。凪は会釈だけして、しゃべらずに乗船口へ歩いた。私もついて行き、船の腹みたいな通路に入る。中は暖かいのに、空気が湿っていて、古いバスの中みたいな匂いがした。
エンジンがかかり、船が岸を離れる。スマホは圏外になった。私はレコーダーを出して録音を始める。波の音、揺れ、どこかで誰かが咳をする音。凪は何も言わず、ただ甲板の手すりに手を置いていた。
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