
長編
緑の文化大革命
しもやん 3日前
chat_bubble 0
15,771 views
* * *
これにてわれわれ人類ががんになったりヘルニアを患ったりする理由が理解できる。人間とはしょせん、目先の利益だけを追求する自然淘汰によって製造された欠陥品なのである。
類人猿がサバンナで二足歩行することの有利さを自然淘汰が優遇したとき、類人猿は体重を一手に引き受けるほど頑丈な椎間板を持っていなかった。標準よりもろい椎間板を持つ個体がヘルニアを患うコストよりも二足歩行の便益がはるかに勝っていたので、その遺伝子は以後も引き継がれていった。人間が肩こりや転倒やヘルニアのリスクを負ってまで二本足で歩くのはそうした理由からである。
※二足歩行には莫大な利点がある。両手がフリーになるので道具を使用できるし、より遠くを見ることができるので捕食者の発見が早くなるなど。
オオカミとアシカの話に戻ろう。なぜオオカミは争いを平和的に解決し、アシカはそうでないのか? それは繁殖戦略のちがいで説明できる。オオカミは比較的一夫一妻に近い種なので、メスをめぐった闘争は穏やかに推移する。争いで負けてもまだほかのメスをものにするチャンスは十分ある。たった1度のチャンスに命を賭けるのはばかげているので、オオカミのオスはあっさり負けを認めるわけだ。そのように遺伝的にプログラムされているのである。
アシカは対照的に一夫多妻のハーレム戦略である。勝利したオスがメスを総取りするのである。こうなるとオスはもう、なりふりかまっていられない。持てる力のすべてを傾注し、ハーレムを独占しようとする。負けたが最後、みじめな人生が待っているのだから(実際にアシカでは交尾できる個体はごく少数に限られている)。結果的に争いは熾烈を極め、しばしば生死をわかつところまで発展する。
すべては便益と費用で説明できる。自然はべつに美しくも気高くもない。自然淘汰はつねに個体の利益のみを重視させる、利潤追求マシンなのだ。ここから〈自然主義の誤謬〉という概念が導き出されるのはまったく理にかなったことだろう。生態系とはおのおのの個体が利益を最大化するよう進化した、利己主義者たちの饗宴の場なのである。
読者は資本主義を気高く誤謬のないシステムだと思うだろうか? もちろん共産主義に比べればはるかに効率的なシステムではあるし、おそらくこれに代わる商習慣は存在しないであろう。しかしだからといって利潤を追求する資本主義が美しいとか保護すべき
この怖い話はどうでしたか?
chat_bubble コメント(0件)
コメントはまだありません。