
これは、以前働いていたある老人ホームでの話です。
建物はかなり古く、何度も増改築を繰り返したせいで、廊下の幅や天井の高さが場所によって微妙に違っていました。夜になると照明は必要最低限しか点かず、白っぽい光が色褪せた壁をぼんやり照らしているだけで、影のほうが多いような場所でした。
その施設には「特居」と呼ばれる区画がありました。
特別居室の略らしいのですが、正式名称で呼ぶ人はほとんどいなくて、職員は皆、短くそう呼んでいました。
最初にその名前を聞いたのは、休憩室での何気ない雑談でした。
「あんた、特居行ったことある?」
そう聞かれて首を振ると、相手は少し声を落としました。
「変なんだよ、あそこ」
理由を尋ねると、
夜中にナースコールが勝手に鳴ること。
止めても、しばらくすると別の場所でまた鳴ること。
入室した利用者さんが急に落ち着かなくなること。
ベッド柵を、同じ間隔で一日中叩き続ける人が何人もいたこと。
叩き方が妙に正確で、
トン……トン……トン……
まるで誰かとリズムを合わせているみたいだ、と。
別の職員が、
「前にさ、特居で急に痙攣起こして倒れた人いたよね」
と付け足しました。
誰も笑いませんでした。
⸻
私が特居に入ったのは、その後一度だけです。
夜勤中、備品を取りに行く必要があって、一人で向かいました。
廊下は薄暗く、白い電灯が色褪せた床と壁をぼんやり照らしていました。古い照明がかすかにチカチカ鳴っていて、その音だけがやけに大きく感じられます。
歩くたび、木造の床がぎしりと軋み、足元が頼りない。
壁際には芳香剤や消毒液が置かれているのに、なぜか埃っぽい匂いが残っていて、湿った木の臭いと混ざって鼻につきました。
手すりに触れると、ひやりと冷たい。
空調のせいではなく、空間そのものが冷えているような感覚でした。
備品を取ろうとしたとき、近くの利用者さんの部屋から、かすかな物音が聞こえました。
気になって様子を見に行くと、特居の女性利用者さんがベッドの上で落ち着かない様子でした。
認知症の方が夜間に取り乱すことは珍しくありません。
「どうされましたか?」
そう声をかけると、
「たすけてぇ……」
掠れた声で、そう言いました。
「何かお手伝いできることはありますか?」
「うぅ……」
言葉にならない声だけが返ってきます。
しばらく付き添っていると、やがて目を閉じたので、そっと部屋を出ようとした、その瞬間。
背中側で、
トントントントン!
激しくベッド柵を叩く音が響きました。
後日談:
- いつどこで踏み入れるかは、誰にも分かりません。
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