
十月の終わり、長野の山あいの小さな温泉宿は、紅葉目当ての客でぎりぎり回っていた。僕はフロント兼雑用の季節スタッフで、チェックインから布団運びまで何でもやる。都会のホテルみたいに分業がない分、客の顔はすぐ覚える。
その週に来た夫婦も、初日で印象に残った。男は声が大きくて、廊下でも平気で電話するタイプ。対して奥さんは、荷物を持ったまま一歩後ろに立っていて、目を合わせようとしなかった。手首の内側にうっすら青い跡が見えた気がして、見なかったことにした。
翌日からも、男はよくフロントに降りてきては「部屋が寒い」「夕飯の時間を早めろ」と文句を言った。奥さんは後ろで小さく頭を下げるだけ。僕がタオルを追加で渡すと、指先で受け取って、消えるみたいに部屋へ戻っていった。
ところが四日目あたりから、空気が変わった。男の姿を見かけなくなったのに、奥さんだけは朝のラウンジに来て、窓の外の赤い山を眺めていた。表情も少し柔らかい。コーヒーのおかわりを聞くと、はっきり「お願いします」と返ってきて、こちらがびっくりした。
その夜、雨が降り出した。館内の見回りを終えて裏口の鍵を閉めようとしたとき、物置の方でガタッと音がした。覗くと、奥さんが一人で一輪車を引っ張り出していた。園芸用のやつで、石畳の補修に使うことがある。
「何か探してます?」と声をかけると、奥さんは一瞬だけ身を固くして、それから笑った。初めて見た笑い方だった。
「明日、道が滑りそうで。ここの小道、穴があいてますよね。埋めた方がいいかなって」
僕は宿の人間でもないのに、と喉まで出かかったけど、確かに裏庭の小道はところどころ沈んでいる。置きっぱなしのセメント袋もあった。奥さんはビニール手袋をはめていて、手際が妙にいい。
「袋、重いですよ。ひとつだけなら運びますけど」
そう言うと、奥さんは遠慮するみたいに首を振ってから、結局うなずいた。僕は物置の扉を押さえ、奥さんがセメント袋を一輪車に乗せるのを手伝った。二袋目を乗せた瞬間、荷台が沈み込む。セメントにしては重い気がした。
雨音で分からなくなっていたけれど、そのとき、荷台の奥で何かが小さくぶつかる音がした。コツ、と濡れた布に当たるような鈍い音。奥さんは気づかないふりをして、上からブルーシートをかぶせた。
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