
転職して最初に覚えたのが、非常停止ボタンの場所だった。
俺が働き始めたのは港町のリサイクル工場で、潮と油と、雨で濡れた段ボールの甘い腐りかけた匂いが敷地にこもっていた。仕事は古紙とプラごみの選別で、最後は巨大な圧縮機に入れて四角い塊にして出荷する。
初日の研修で班長に言われたのが、圧縮機の扉は一度閉めたらサイクルが終わるまで触るなというルールだった。中を確認する小さな強化ガラスの窓が付いているのに、途中で開けたり覗き込みすぎたりするな、と。理由を聞くと、班長はマニュアルのページを指で叩きながら、油圧が戻る前に開けたら腕が持っていかれる、と説明した。淡々としていて、逆に怖かった。
三日目、俺は初めて一人で圧縮機を回した。夕方のラインは忙しくて、ベルトの上には引っ越しゴミが混じった束が次々に流れてくる。俺は箱を押し込んで扉を閉め、スタートボタンを押した。低い唸りが床から上がってきて、窓の向こうでラムがゆっくり降りていく。
その時、中から子どもの声みたいなものがした。
耳鳴りかと思った。でも音は、明らかに圧縮機の中の空洞から聞こえた。こもっていて言葉になりきらない。泣きそうな息を吸う音だけが繰り返される。
俺は反射で非常停止ボタンに手を伸ばした。そこでルールが脳裏をよぎって指が止まった。窓に顔を寄せても、中は段ボールと黒いゴミ袋でぎゅうぎゅうで、何が鳴っているのか分からない。ラムがさらに降り、音が少しだけ高くなった。
次に聞こえたのは、スマホの着信音だった。やけに明るいメロディが鉄板を震わせて、チリチリした音に化ける。俺は思わず自分のポケットを叩いた。俺のじゃない。窓の奥で、ゴミ袋が小さく震えた気がした。
汗が背中を伝っていく。もし人が入っていたら。そんな発想が出た瞬間、息が詰まった。止めるべきだ。けど、油圧の途中で扉に手を出したら危ない。ラインを止めたら、みんなの残業が伸びる。
考えている間にもラムは降り続け、音は薄くなった。最後は「うう」という声みたいなものだけ残ってぷつりと途切れた。着信音も歪んで消えた。サイクルが終わって塊が吐き出されるまで、俺はランプの点滅を見ていた。
休憩室で水を飲んでいると、班長が隣に座った。俺の顔色を見て、すぐに察したみたいだった。
「さっき、変な音出た?」
この怖い話はどうでしたか?
chat_bubble コメント(0件)
コメントはまだありません。


