
最初におかしいと思ったのは、消毒用アルコールの匂いだった。
私は市の資料保存室で働いている。公文書や古い帳簿を扱う部署で、閉架の書庫が主な職場だ。仕事の内容は単調で、紙の状態を確認し、劣化の程度をチェックし、必要なら簡単なメモを残す。それだけだ。
保存室では火気厳禁だから、清掃や作業前後にアルコールを使う。誰がやっても同じ手順で、同じような匂いが残る。強いとか弱いとか、正直そこまで意識するものではない。
ある火曜日の夕方、作業を終えて鍵を閉める直前、ふと気になってメモ用紙に書いた。
「今日の匂い:やや強」
理由はない。ただ、そう感じたからだ。
翌週の火曜日も、同じように感じた。
「今日の匂い:やや強」
三週目も同じ。
四週目も。
そのうち、火曜日以外の日にも一応書くようになった。月曜は「普通」、水曜は「弱め」、金曜は「気にならない」。特に意味はなかった。ただ、火曜日だけが、毎回「やや強」になるのが落ち着かなかった。
五週目の火曜日、念のため別の表現を使おうとした。「強め」か「普通寄り」か迷って、結局、前と同じ言葉を書いた。
その瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
次の週、火曜日の作業中、匂いが分からなくなった。強いのか弱いのか判断できない。アルコールの揮発音だけがやけに大きく感じられた。
書庫を一周して、棚の間で立ち止まったまま、どの表現を書くべきか考えた。過去のメモを思い出す。「やや強」。それ以外を書いたら、何かがずれる気がした。
結局、その日はメモを書かずに帰った。
夜、目が覚めた。理由は分からないが、作業が終わっていない感覚だけが残っていた。頭の中で、アルコールの匂いを思い出そうとしたが、何度やっても輪郭が定まらない。
翌朝、出勤すると、昨日のメモ欄が気になって仕方がなかった。空白のままではいけない気がして、開室前にノートを開いた。
「昨日の匂い:やや強」
書いた瞬間、呼吸が整った。
それからは、火曜日になると、作業が終わる前に必ず匂いを段階で確認するようになった。入口、中央、最奥部。三か所。強い、やや強、やや強。順番も、数も、揃っていないと落ち着かない。
誰かに相談しようとしたこともある。でも、「匂いを数えている」と説明しようとした時点で、言葉が壊れる気がしてやめた。
ある火曜日、最奥部の匂いが分からなかった。何度深呼吸しても判断できない。代わりに、紙の擦れる音が一回だけ、はっきり聞こえた。
その日は、匂いではなく音を数えた。
一回。
後日談:
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