
二月の終わり、湾の風がまだ硬いころに、それは配られはじめた。漁協の窓口に積まれていた薄い冊子で、表紙には青い波の絵と、小さく町内向け無料とだけ印刷されている。潮位表にしては洒落ていて、ページの端にミシン目が走っていた。切り取ると栞になる。潮のしおり、と裏面に書いてある。
僕は養殖いかだの点検を請け負う四十六の作業員で、潮は仕事の半分みたいなものだ。だから便利そうだと思って、何気なく一枚抜いた。栞には、満潮干潮の時刻だけでなく、短い文章が並んでいた。早朝のうちに網を上げると道具が乾きやすい、夜は風向きが変わるからロープを先に緩めておくといい。そういう、当たり前だけど助かる段取りのヒントだ。
それが町に馴染むのは早かった。魚市場の人も、弁当屋も、病院の受付も、レジ横に栞を立てていた。みんな時間に追われるのが嫌だったのだと思う。母まで冷蔵庫に磁石で貼り、薬の時間に線を引いていた。
「これ見てるとね、何から手を付けるか迷わなくて済むのよ。今日は波が荒れそうだから、先に洗濯しちゃいなさいって書いてあるし」
母は僕を見ないで言った。言い方が嬉しそうでも、怖がっているでもない。ただ、肩から力が抜けた声だった。
数日経つと、栞の文章は少し変わった。天気や潮の話ではなく、町の動きそのものに触れだした。午前九時過ぎ、役場前の横断歩道は急がないほうが安全、とか。午後三時、学校の裏門のほうが混まない、とか。誰かが統計を取っているみたいに具体的で、僕は気味が悪くなった。
妙だと思ったのは、紙の匂いだ。海辺の町だから紙は湿る。けれどその栞だけは、湿ってもふにゃりとならず、指で撫でると乾いたまま、かすかに磯と鉄の匂いを返した。潮の匂いに紛れてしまう程度の、でも鼻の奥に残る匂い。
ある日、作業の休憩で弁当を食べながら栞を眺めていたら、見覚えのない一文が目に入った。午後一時十分、倉庫の奥の箱を動かすとすっきりする。倉庫の奥の箱とは、僕が昨日から気にしていた、誰も触らない古い浮きの箱のことだ。口に出してはない。頭の中で、邪魔だな、片付けたいな、と考えただけだ。
気持ちが悪くなって、栞を折り曲げようとした。指が湿っていたせいか、紙の表面が一瞬だけ柔らかくなり、僕の指紋に沿って薄い跡がついた。跡はすぐ消えたが、代わりに次の行の文字が滲むように浮いた。午後一時十二分、手を洗う。
まるで紙が、僕の手の中の迷いを吸って、順番に並べ直しているみたいだった。
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