
長編
出土した災厄
しもやん 2020年3月21日
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わたしの祖父はアル中だった。
その息子であるわたしの父親は、郵便物ひとつ出すのに徒歩で1日もかかるような寒村に見切りをつけ10代で家を出ていた。そのため祖父母とは盆暮れ正月に会う程度であったが、幼少のころのわたしが覚えている祖父の姿は、ワンカップの日本酒を片手に万年こたつでうつらうつらとまどろんでいるという見栄えの悪いしろものだった。
祖父は粗野で気が短く、酒が切れるとしょっちゅう祖母を殴った。我慢の限界に達した祖母が何度か、わたしたちの家にまで避難してきたことがあったほどだ。
1~2日ほどは頑固一徹を通して二度と帰ってくるなと息巻く彼も、男やもめの一人暮らしは荷が重すぎたのだろう、一週間も経つと「戻ってきてくれ」と電話で泣きついてくる。アル中なうえに自堕落で、始末に負えない男だった。
そんな彼に協調性を求められる会社勤めが性に合うはずもなかった。こんなエピソードがある。彼がとある土木会社に内定し(戦後の復興期は五体満足でさえあれば、どんな人間でもとりあえず採用されたのである)、記念すべき出社初日。いくら待っても現場に祖父は現れない。監督たちが貧乏ゆすりをしながらいらいらしていると、焦点の合っていない祖父が千鳥足でやってきた。1時間以上の大遅刻であったらしい。
監督が遅刻したうえに朝っぱらから酒を呑んで出社するとはどういうつもりだと問い詰めると、祖父は居直って傲然と胸を張る。酒を呑んでなにが悪い、きてやったんだからありがたく思え。呆れた監督がその場で馘首を言い渡すと、彼も負けていない。ああ辞めてやるよ! 呂律の回らない口調でそう叫び、例の千鳥足で退場したのだという。
彼は結局自営業者として炭焼き小屋を作り、そこで細々と燃料用の黒炭を製造していたらしい。自由の利く自営業とあれば当然飲酒が常態となり、作業効率は低迷、ろくな稼ぎもなかったそうだ。それでも祖父母たちはそれなりの一戸建てに住んでいて、貧困線を割るような生活はしていなかった。つねに彼の片手には日本酒のワンカップとセブンスターが握られていたし、自給自足用の米を栽培する耕運機も持っていた。
また晩年に祖父がアルツハイマーに侵されて入院した折りも、わたしたち家族は一銭も支払っていなかった。彼は結局、酒には殺されなかった。死因は肝硬変や肺がんではなく、身体機能の全般的な低下、要するに老衰だった。
祖父母の生活を支えていたのは恩給である。祖父は日中戦争に参加していたのだ。
* * *
日中戦争は昭和初期、占領地の権益保護を名目に始まった。
当時中国北東を占める満州は日本が投資して近代国家に仕立て上げた虎の子であった。認証はほとんど得られていなかったものの、満州はれっきとした国家であり、五族協和をうたう人種の入り混じった国際都市でもあった。日本は満州を足がかりとし、北からモンゴルを通って侵略してくるロシア軍をけん制していたのである。
1930年代当時の中国は定まった支配者がおらず、覇権を目指して小規模武装勢力(=軍閥)が跋扈する混乱状態にあった。各地で血で血を洗う内戦がくり返され、それらは一向に終わるようすを見せなかった。軍閥のなかでも有望だったのが、蒋介石(しょうかいせき)率いる国民党政府、毛沢東(もうたくとう)率いる共産党政府、そして汪兆銘(おうちょうめい)率いる南京政府の3者であった。
中国は列強諸国に租借(一部の土地を外国に事実上支配されること)されており、そのなかでもアメリカ、ロシア、日本が租借地に自国の権益を集中させていた。中国が終わりなき戦乱にさらされていれば、自国の租借地に戦火がおよぶ。そうした懸念からアメリカは蒋介石を、ロシアは毛沢東を、日本は汪兆銘を裏で支援することとなった。日中戦争は表向き日本が中国を侵略した戦争だと解されているけれども、事実はそうではなく、現地の有力軍閥が上記3国の代理戦争を行っていたといえる。
日本は租借地や満州を防備するため軍隊を派遣していたが、日中戦争の泥沼にはまる前まで彼らはなんらかのいざこざを起こしたという記録はいっさいない。軍隊はあくまで市民を軍閥紛争から守る警備隊であり、侵略の意図はなかったようだ。もともと満州警備隊の関東軍を預かっていた石原莞爾大佐や首相の近衛文麿も、広大な中国大陸に侵略戦争を仕掛ければ早晩兵站(=現場の兵士を維持する食料や装備の補給基地)の問題が出来し、消耗戦になるのは必定と見ていた。中国とことを構えるのは得策ではない。それが日本の総意であった。
戦争の火付け役はもちろん共産党政府である。共産党政府は国民党政府と南京政府を倒し、中国制覇をもくろんでいた。しかし共産党の軍事力は両者に比べて乏しく、地方の村にゲリラ兵を潜入させて不意を打つ一撃離脱戦法をとるのが関の山であった。まずは国民党と南京政府を戦わせ、消耗した勝者をロシアとともに討つ。
共産党は早速このプランを実行に移した。盧溝橋で夜間訓練を行っていた日本軍は、なんらの警告もなく突如として発砲されたのである。発砲は国民党の仕業とされ、以後日本政府と国民党の関係は悪化の一途を辿り、ついには日中戦争の泥沼へとはまりこんでいくのである。この発砲はコミンテルン(=共産党シンパで構成される赤化推進組織)の謀略であったいうのが現代の通説である。日本は共産党にまんまとはめられたわけだ。
余談だが日本の政治力がお粗末なのはなにもいまに始まったことではない。盧溝橋事件しかり、真珠湾攻撃しかり。後者はアメリカの見事な心理戦であったといえる。日本へ苛烈な要求――仏印からの撤退、満州からの撤退などを要求したコーデル・ハル国務長官のハル・ノート――をつきつけて、わざとハワイを攻撃させる。国民感情を煽り、世界大戦の不参加を公約にしていたローズベルト大統領は労せずして参戦に転じることができたのだ。ハル国務長官の謀略だろうがなんだろうが、外交の段階から戦争は始まっていたのである。それを見抜けず勝ち目のないアメリカにケンカを売った日本の政治力は幼稚であったといえよう。
その後日本は石原莞爾大佐や首相の近衛文麿の意向もあり、国民党軍とは散発的な戦闘しか行わなかった。けれども満州住民への無差別虐殺や租借地の民間人殺戮などが横行し、ついに日本も現地日本人を守るために開戦せざるをえなくなった。南京政府のトップである親日派の汪兆銘とともに蒋介石の国民党軍を撃退する。以上が日中戦争の開戦までのあらましである。
祖父が派兵されたのは上記のような時分であった。
* * *
祖父は決して戦争体験を語らなかった。
もともと寡黙な人で他人とのコミュニケーション能力に難があったのは確かだが、酒が入っていないとき――1日のうちのほんのわずかな時間――は孫たちと親しげに言葉を交わすこともあるにはあった。結局わたしは一度として、祖父から日中戦争の話を聞けなかった。
祖母に聞いてみたこともあったが、彼女もまったく知らないのだという(そんな祖母もアルツハイマーを発症し、十年以上も前に亡くなっている)。中国の話をせがむと彼は露骨に不機嫌になり、拳が飛んでくる。彼女は極力戦争の話に触れないよう神経をすり減らしていたらしい。
頑として戦争体験を語らなかった祖父。彼はかの地でどんなおぞましい経験をしたのだろうか。
その答えらしきものをわたしはつい先日、知ることになった。
* * *
つい1週間ほど前、わたしは祖父母の家へふらりと立ち寄った(もちろんいまでは無人で、お盆に親戚が集まるときの宴会場として残してある)。冬のあいだは屋根近くまで降り積もる雪に閉ざされる寒村も、いま時分になれば車で入ることもできるようになる。なにか理由があったわけではない。仕事にかまけて何年も在所へいっていなかったので、無性に見てみたくなったという程度の動機だった。
在所は古い木造の一戸建てで、山奥の清流沿いにひっそりとたたずんでいる。家の奥は鬱蒼とした杉林で、在所が人家のどん詰まりになっている。周りには離婚騒動で一家離散したあと空き家になっている長者の家と、犬とともに暮らす老夫婦の家があるきりで、あたりはしんと静まり返っている。
郵便受けに入れてある鍵を使い、なかに入る。暖房されていない早春の室内は肌寒い。人が常駐していないせいか、かすかにかび臭くもある。父親が定期的に清掃してくれているらしいのだが、家は人が住まなければ荒れるいっぽうだ。
ぐるりと1階を周り、勾配の急な階段を昇って2階へ。父の妹(わたしからすれば叔母)が使っていた化粧箪笥がいまもそのまま置いてあり、当時のロック歌手と思われる人物の色あせたポスターが異彩を放っていた。
毛羽立った絨毯には大量のカメムシの死体が腹を上にして転がっている。この地方でこの虫を見ない季節はない。ことに冬はひどい。どこからともなく無限に湧いてくるのである。
わたしはふと、叔母が使っていた化粧箪笥が気になった。当然といえば当然だが、いままで一度も開けたことがなかったのだ。とっくに結婚して滋賀県に移住した叔母。彼女の青春時代を語るなにかがあればと思って、何の気なしに最上段を引っ張ってみた。
一冊のノートが入っていた。
かなり古いものらしく、ぼろぼろに日焼けしていてめくった先から破れそうなしろものだった。B5判くらいの小さなノート。タイトルもなく、右端を糸で綴じてある。縦書きの体裁(右で閉じてあるので)と糸綴じという時代がかった様式から、即座に叔母のものでないことはわかった。
ためらいはあったものの、表紙をめくってみた。
驚くほどの達筆で〈支那日記〉と書いてあった(実際は旧漢字が使われていたが、以後すべて現代かな遣いで表記する。また年号も皇紀であったが和暦に改めた)。支那というのは戦前の中国の呼称である。わたしはどうやら祖父がかたくなに守り通してきた戦中の行動記録を見つけたらしい。
わたしは時間を忘れ、夢中で読み漁った。以下に内容を抜粋して掲載する。
※年号や記述から推察すると、祖父は蒋介石率いる国民党討伐作戦に従事し、中支那方面軍のいずれかの師団に所属していたと思われる。誰の指揮下に入っていたのかまでは判別できなかった。
* * *
昭和12年11月5日
上海に上陸す。敵兵の攻撃散発的なり。発砲されるも的はずれること多く、照準の狂った粗製乱造品である由。隊の雰囲気、楽観的なり。
昭和12年11月9日
攻略速度めまぐるしく、帝国陸軍の実力を再認識するにいたる。支那軍、上海からことごとく遁走す。上海は陥落、祝賀会が開かれる。羽目を外して痛飲しすぎる者多数。自分も明日の朝、二日酔いは必定なりと覚悟す。
昭和12年11月11日
遁走した国民党軍の処遇について、隊で意見が噴出す。追撃を敢行し、国民党軍を完膚なきまでに叩きのめすのを信条とする支那膺懲派、あくまで不拡大方針に忠実な穏健派。自分は前者に与して激論を戦わせた。いやしくも帝国軍人であるならば、無辜の日本人を殺害した支那人を許すなどとうてい考えられぬ。
昭和12年11月15日
上層部での議論、いまだ決着せず。われわれは上海に足止めされ、無為の日々をすごす。国民党軍を膺懲するは必定なり。汪兆銘こそが中国を支配する真の傑物である。
昭和12年11月25日
戦闘に参加しており、日記を書くのが遅れてしまった。われわれは支那軍を追って南京を攻略すべく動き出している。無錫市攻略では壮絶な市街戦となったが敵の大多数はすでに退却、町は徹底的に略奪されていた。同胞の物資を奪う神経が自分にはわからぬ。
* * *
蒋介石の国民党軍は追ってくる日本軍の追撃を逃れ、ヒット・アンド・アウェイ戦法で真正面からは戦わず、中国奥地へと西へ落ち延びる戦略をとっていた。そうすることにより日本軍の補給線を延長させ、息切れを狙ったものと思われる。当の国民党軍はいく先々の町で食料を奪えばよいので、兵站問題は解決する。
日記に出てくる「徹底的に略奪されていた」というのは中国軍のお家芸である。こうした蛮行はなにも日中戦争当時に始まったものではなく、それこそ有力豪族の跋扈する春愁戦国時代からの伝統だ。
中国では易姓革命によって頻繁に支配者が変わるため、住民たちはもともと彼らに対する忠誠心を持ち合わせていなかった。兵士は戦争が始まって相対的に実入りがよいと判断した農民たちが一時的になるものであって、間に合わせの烏合の衆であった。
兵士たちは勝てば官軍、占領地で暴虐の限りを尽くす。食料を奪い、金目のものを盗み、女性を犯す。負ければ地方へ落ち延び、山賊稼業に身をやつす。むかしの中国人には定まった職業はなかったといえる。平和な時分には農作業に従事し、乱世になれば兵士として戦争に参加し、負ければ盗賊である。
日中戦争当時、ハーグ条約と呼ばれる国際的な戦争のルールが一応制定されていたものの、それを上記のような寄せ集め軍隊の末端にまで徹底させられるほど中国軍の軍紀が整っていたとは思われない。彼らはむかしからの伝統にしたがって、落ち延びた先の町を略奪していった。日本軍が追いついたころには徴発できる食料ひとつ残っていない、荒廃したゴーストタウンがあるばかりだったのだ。
* * *
昭和12年12月1日
南京攻略決定す。隊の雰囲気目に見えて活性せり。同日早速進軍始まるも、行軍ははなはだ辛く、38式の重さが堪える。食料は乏しく、冷雨に降られて体調を崩す者続出せり。
昭和12年12月7日
前日、句容攻略完了す。まれにみる大会戦であった。自分の隊からもついに死者が出る。支那兵は状況不利と見るや即座に投降する傾向大なり。句容戦でも帝国陸軍は多数の捕虜と装備の鹵獲を得た。鹵獲品のなかにはロシア製の火器が相当数混じっており、支那共産化の懸念を新たにす。
昭和12年12月8日
南京城包囲。辛い行軍もここが最終だと部隊長が喝を入れられる。12月10日はほかの部隊と共同で総攻撃をかける由。武者震いで目が冴えてしまう。今夜は眠れそうにない。
昭和12年12月9日
陣地構築。塹壕を掘り、穴ぐらのなかで1日中待機する。支那軍が近隣の村を焼いているとの報せ多数。無辜の支那人民のためにも明日の総攻撃は成功させねばならぬ。
昭和12年12月14日
多忙を極め、近々の日記を怠ってしまった。総攻撃は成功裏に終わり、南京は陥落せり。城内に入場するも、すでに主力部隊は遁走したあとであった。わが隊は城内の治安維持にあたり、民間人への略奪は厳に慎むべしと命令を受ける。
* * *
南京大虐殺はいまもって異論の多い史実である。
中国は日中戦争当時、日本軍が蒋介石を追って占領した南京において、住民30万人を殺戮したと主張している。これは兵士ではなく非戦闘員の住民がそれだけ殺されたという趣旨のようである。
いくら日本帝国陸軍が世界でも類を見ないほど軍紀の整った軍隊であったとはいえ、まったく略奪が行われなかったということにはならない。一方的な殺人や強姦は残念ながらあっただろう。だがさすがに30万人殺戮というのは無理がある。以下にいくつか列挙してみよう。
1、南京市の人口
当時の南京市の人口は、おおむね30万人前後であった。すると日本軍は南京城内をくまなく捜索し、老若男女の区別くなく徹底的に殺して回ったことになる。これはいくらなんでも不可能であろう。広島と長崎を襲った原爆ですら数万人単位の死者数にとどまるのである。それをはるかに上回る人数を人力で、それも占領後たったの1~2週間で完遂するというのは現実味がない。
お笑い種なのはある少尉2人による100人斬り達成という眉唾な記録である。2人は中国人をどちらが先に100人切り殺せるかを競って南京市を奔走し、片っぱしから軍刀で民間人を殺害していったという。上述したように日本軍は当時、世界でも有数の規律に厳しい軍隊であった。そんなまねを少尉風情が独断で始めたとしたら、即座に上官の知るところとなり、徹底的な譴責を受けたであろう。
2、南京住民からの歓迎
南京陥落後、日本軍は住民から熱烈な歓迎を受けている。写真でも証拠が残っており、兵士に駆け寄る子どもが写っているものもある。いくつかプロパガンダ用の宣伝写真が混じっていたとしても、これらの写真を見る限り強制された演技のようには思われない。
日記にもある通り、中国軍は退却した先々で略奪を行っている。南京でも当然それはあっただろう。そうであるならば、住民が〈兵匪〉と化した中国軍を追い払ってくれた日本軍を歓迎したとして、なんらの不思議もない。占領地の住民がゲリラ戦法で反撃してきたのなら話はべつだが、友好的に接してくる住民を一方的に殺戮する合理的な理由はない。せっかく現地住民の信頼を得て統治がやりやすくなっているのに、なぜそれを台なしにするようなまねをしなければならないのか?
3、便衣兵の存在
ハーグ条約では便衣兵(=民間人に扮した兵士)の運用を固く禁じていたが、中国軍はことさらこの戦法をよく採用した。多数の住民がひしめく南京市で便衣兵を忍ばせられた場合、占領側はある程度神経質にならざるをえなかっただろう。従軍していた外国記者が目撃したという住民の殺戮というのは、この便衣兵への攻撃であったとすればつじつまは合う。
以上の理由から、わたしは南京大虐殺はなかった、もしくはあったとしても主張されるような規模ではなくはるかに少数のものであったと考えていた。祖父の日記を読むまでは。
* * *
昭和12年12月18日
祝賀会も終わり、隊は治安維持活動に専念す。多くの家屋が支那軍によって焼き払われたため、それらの復興にも尽力す。今日は倒壊した井戸の掘削に精を出す。明日も引き続き井戸の掘削を続ける予定なり。
昭和12年12月19日
井戸の掘削の折、面妖なるものを掘り当てる。半径六尺ほどの球形、質感は柔らかな肉質、二寸五分ほどもある多数の目玉が掘削者である支那人の男を睨んでいた由。それは金切声で絶叫し、ものすごい速さで地中を掘り進んで消えてしまった。いまのはなんだったのかと呆気にとられていると、掘り当てた支那人が何事かをしきりに叫び始めた。いまのは太歳だ、という。太歳を掘り当ててしまったのだと。
昭和13年1月15日
満州への転戦が決定す。
* * *
太歳(たいさい)とは中国に古くから伝わる物の怪である。
太歳は地中を高速で移動しており、木星の動きに合わせてその位置を変えるらしい。見た目はぶよぶよの肉塊で球形、多くの目がでたらめに開いた不快極まりないしろものだという。
この物体は非常に不吉なものだとされ、むかしから(石炭を掘るなどして日常的に土を掘り返していた)中国人に恐れられてきた。太歳を掘り当ててしまうと爾後、たいへんな災厄に見舞われるという。
祖父たちが掘り当てた奇妙な生物は太歳だったのだろうか。それとも迷信深い現地住民が岩を見まちがえただけで、祖父もそんなようなものを見た気になっただけだろうか。わたしはむろん後者だと確信している。そんな超自然的存在がこの世にいるはずはない。
だがもしそうだとしたら。祖父の日記は唐突に翌年の記録に飛んでいる。太歳を掘り当てた12月19日からいったいなにがあったのだろうか。記録の抜けている期間、すなわち12月中旬から下旬までのあいだは南京大虐殺が起きたとされている期間とおりしも一致する。祖父はなぜその期間の記述だけ避けたのだろうか。
わたしの祖父が当時からアル中気質の、錯乱した若者だった可能性は否定できない。太歳を見ただのという記述を大まじめに書く精神病者だったのかもしれない。だがもしそうならば、そもそも彼は軍人になっていなかったはずである。召集令状(いわゆる赤紙)で徴兵された人間でも、戦闘に不適格だと判断されれば兵士にはなれなかった。日常的に妙なものが見えるとのたまう男を採用するほど、帝国陸軍もまぬけではなかっただろう。
それに日記の文面から読み取れる祖父像は、わたしの知っている粗暴な男とは似ても似つかない。彼は祖国に忠誠を誓う模範的な帝国軍人であり、どう考えても大酒を食らって妻を殴るような人間には思われない。祖父がああなってしまったのは、なにか理由がある。それが抜け落ちた12月下旬のできごとに起因するのだとしたら。
祖父は太歳を掘り当てたことで、南京大虐殺を引き起こしてしまったのだろうか。
わたしにはわからない。
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