
終電が引き返していく音を、地下の奥で聞いたことはあるだろうか。駅の喧噪が引き潮みたいに引いたあと、残るのは無線の白いノイズと、湿った風だけだ。新人監視員として配属された夜、俺はその音に迎えられた。
工事区画は終電後にだけ開く。防塵シートの向こうで線路はむき出しになり、天井からは一定の間隔で水滴が落ちている。無口なベテラン――名字だけ教えられた――は懐中電灯を振って先に立った。歩幅が一定で、振り返らない。無線を試すと返事の代わりに「ザッ」という短いノイズが返ってくるだけだった。
監視カメラは仮設だ。三台、等間隔。俺の仕事はモニターを見て異常があれば記録を残すこと。ところが一台目の録画が数分ごとに途切れる。消えている、という表現が正しい。時間の塊が、切り取られたみたいに抜け落ちている。ベテランに伝えると、肩をすくめた。「風だ。湿気が多い」
湿った風は確かに吹いていた。トンネルの奥から逆流するように。耳にまとわりつく低い唸りが無線ノイズと区別できなくなる。二台目も同じだった。抜ける瞬間、画面にだけ細い白線が走る。三台目は、まだ正常だった。
巡回中、ベテランが工事標識の影で立ち止まった。彼は初めてこちらを見ずに言った。「録画、消えるだろ」肯定すると、懐中電灯を消した。闇の中で風が強くなる。無線が、誰かの呼吸みたいに脈打つ。
「昔、終電のあとに戻ってきた車両があった。客は映らない。カメラにも映らない。残るのは、時間だけだ」低く湿った声だった。「映らないものは、録画から消える」
三台目のモニターが瞬いた。白い線。そのあと画面の端に影が動いた。人の形に似ているが輪郭が定まらない。ベテランが言った。「止めるな。見るな。記録だけ残せ」
記録ボタンを押す指が震えた。無線が一瞬、静かになる。風が止み、代わりに遠くで終電のブレーキ音がした気がした。影はカメラの真下で消えた。録画のタイムラインに、また空白が増えた。
巡回が終わり地上に戻ると、夜明け前の空気は乾いていた。事務所でログを提出する。三台目の録画欄だけが空白だった。ベテランは何も言わず、それを受け取って棚にしまった。
翌週、俺は同じ区画に入らなかった。仮設カメラは一台減っていた。理由を聞くと、「必要なくなった」とだけ返ってきた。
それでも終電後、地下から無線のノイズが上がってくることがある。誰も応答しない周波数で、一定の間隔を空けて、短く、白い音だけが返ってくる。
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