
長編
日本101名山
しもやん 3日前
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いまま印刷されたために起こった生産事故である。
しかしごく一部の増刷本は深田久弥の意図通りに改定され、現在でもほんの数冊が市場に流通している。幻の第4版はその希少性ゆえ、オークションサイトにも出品されることはまずない。
〈禍嶺〉には登頂条件がある。百名山を完登した者でなければ決して挑戦してはならないのだという。この山は禍々しい瘴気に満ちており、初心者が安易に登れば山に取り込まれてしまうというのがその理由である。
〈禍嶺〉は国土地理院の地形図にはポイントされておらず、名前のない無名峰としてしか記載されていない。標高は2,400メートル台で、日本アルプスのどこかにひっそりと佇んでいる。
和泉さんは偶然本書を手に入れる僥倖に恵まれた。光岳の山小屋に泊まった際、「俺は〈禍嶺〉に登ったからもういらない」という理由で同宿の山屋から譲り受けたのだそうだ。
その山屋はこう続けたという。「第4版はババ抜きのジョーカーみたいなもんだ。101座めに登ったあともこの本を持ち続けていると、必ず不幸が訪れる。それでもいいならもらってくれ」
和泉さんは逡巡した挙句、呪われた第4版を受け取ったそうだ。
101番めの百名山に登る条件は2つ。①幻の第4版を入手している、②百名山をクリアしている。これら困難な条件を達成した者だけが〈禍嶺〉に登頂できるのである――。
* * *
尋ねたいことが山ほどあったが、とりあえず101番めのページを開くことにした。なるべく紙が破れないよう、慎重に剥がしていく。
当該ページは粘性の液体によって赤黒く変色しており、ほとんどなにが書かれているのか判別不可能であった。右上に小さく山の位置を示す地形図が載っており、そこだけはかろうじて判読できた――はずなのだが、〈禍嶺〉の位置をわたしは完全に忘れてしまっている。
地形図のキャプションに長野県という文字が入っていたことだけは確かだ。それ以上の情報は不可解なことに、まったく覚えていない。〈禍嶺〉に対してとてつもなく不吉な印象を抱いたことだけ、鮮烈に脳裏に刻まれている。
わたしはどうコメントしてよいかわからないまま、幻の第4版を和泉さんへ返そうとした。彼は受け取ろうとしない。
「なあ兄ちゃん、アンタ百名山やってへんのか」
首を横に振り、本を押し付けるようにして返した。和泉さんは渋々受け取ったが、眉間に皺を寄せて思いつめた
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- 奥の深い実話怪談でした。 百名山に魅せられた挙げ句、存在すら疑わしい未踏の101目の山「禍嶺」に傾倒するあまり、愛する家族や、生きる希望すら失ってしまった人間の業。ラスト一文が、切なく響きました。慈母観音
- 山には登らないけど話は興味深くおもしろかったです。うんこりん