一人暮らしを始めて、いちばん安心したのは、部屋のインターホンに小さなカメラが付いていたことだった。
モニター付きの受話器で、訪問者の顔が見えるやつだ。
管理会社の人が、「録画機能もありますから、不審者が来たときも後から確認できますよ」と説明してくれた。
最初は「へえ、便利だな」くらいにしか思っていなかった。
変だな、と思い始めたのは、引っ越して一ヶ月くらい経った頃だ。
深夜一時を少し回ったあたりで、チャイムが鳴った。
「ピンポーン」
ゲームの音だと思って無視しようとしたけれど、イヤホンを外してもまだ鳴っている。
慌ててテレビを消して、玄関のモニターを覗き込んだ。
誰も写っていない。
玄関前の廊下と、蛍光灯の白い光だけがぽつんと映っている。
「悪戯かな」
そのときはそう思って、そのまま布団に戻った。
それから数日おきに、同じようなことが続いた。
だいたい夜中の一時か二時ごろに、チャイムが一回だけ鳴る。
モニターを見ると、誰もいない。
管理会社に連絡しようかとも思ったが、相手にされなさそうでやめてしまった。
人間、三回目までは「たまたま」で済ませられる。
四回目の夜、さすがに気味が悪くなって、私はふと思い出した。
――録画機能がついてるんだ。
翌日の昼、仕事から帰ってきてから、私はインターホンの受話器を手に取った。
説明書を読みながら、履歴の見方を探す。
小さなボタンを押すと、モニターの右上に「録画一覧」と表示され、日付と時刻がずらりと並んだ。
「……結構残ってるんだ」
スクロールしていくと、夜中の一時台にいくつか録画があった。
再生ボタンを押す。
白い廊下が映る。
蛍光灯の明かりが、わずかにちらついている。
誰もいない。
インターホンの録画は、チャイムが鳴ったときに自動的に数秒だけ保存されるらしい。
画面の右上に「01:07」と時刻が表示されている。
他の夜も再生してみたが、やっぱり誰も写っていなかった。
最後のひとつにだけ、違和感があった。
「03:12」と表示された録画を再生した瞬間、画面の左端に黒いものがよぎった。
「あれ?」
巻き戻して、もう一度再生する。
今度は、一時停止ボタンを連打しながら、少しずつ進めた。
画面の隅に、なにかが写っている。
廊下の手前、カメラに向かってくるように伸びた、黒い影のようなもの。
指先、だと気づくまでに少し時間がかかった。
細くて白い指が、画面の端に四本だけ写っている。
まるで、カメラの死角から、そっとレンズに触れようとしているみたいに。
「……やだ」
1 / 4
思わず声に出して、再生を止めた。
でも、指先に見えたそれを「気のせい」で済ませられなくて、私はさらに拡大ボタンを押した。
画面が粗くなりながらも、影が大きくなる。
そこにはやっぱり、人間のものとしか思えない手が写っていた。
爪の先が、レンズのすぐ脇をなぞるようにして止まっている。
指の根元は、フレームに切れていて見えない。
誰が、こんな時間に、こんな近さまで顔を寄せていたのか。
そう考えた途端、背中が冷たくなった。
翌日、仕事の帰りに管理会社の事務所に寄った。
録画を見せて、「夜中に何度もピンポンされている」と説明した。
担当の男性は少し眉をひそめて、「最近、上の階でも似たような相談がありましてね」と話した。
「インターホンの前に立ってる人は、録画に写ってるんですか?」
「いえ、それが……誰もいないんです。ただ、インターホンのカメラを塞ぐみたいに、真っ黒になるだけだって」
私の録画の“指”のことを言おうか迷ったが、馬鹿にされそうでやめた。
「しばらく様子を見てください。何かあったらすぐ警察を呼んでくださいね」
マニュアル通りの言葉に少し苛立ちながらも、私は頷いた。
それからしばらく、チャイムは鳴らなかった。
代わりに、別のことが気になり始めた。
夜、帰宅して玄関を開けると、鍵の感触がわずかに違う気がするのだ。
きちんと閉めたはずなのに、軽く回る。チェーンも、かかっているような、いないような微妙な位置で揺れている。
「疲れてるだけだ」と自分に言い聞かせて、寝る前に必ず玄関の写真を撮るようにした。
鍵がちゃんとかかっているか、チェーンの位置が変わっていないか、確認できるように。
そんなことを続けて三週間ほど経った頃、また夜中にチャイムが鳴った。
「ピンポーン」
時計を見ると、午前二時過ぎ。
私は布団の中で固まった。
電気をつけるか、モニターを確認するか、それとも無視するか。
数秒だけ迷ってから、布団をはいで起き上がる。
玄関まで行くのは怖かったので、枕元のスマホを手に取り、インターホンのアプリを開いた。
このマンションのインターホンは、専用アプリからもモニターが見られるのだ。
画面に映ったのは、やっぱり誰もいない廊下だった。
蛍光灯の下に、うっすらと影が落ちている。
スマホ越しに玄関の方を見つめながら、私はしばらくその画面から目を離せなかった。
やがてチャイムが鳴り止み、何も起きないまま、私はまた眠り込んでしまった。
翌日の夕方、帰宅してから、私はいつものように録画履歴を開いた。
2 / 4
昨夜の「02:13」に、録画が残っている。
再生ボタンを押した。
廊下。蛍光灯。誰もいない。
それだけの映像を確認して、安心しかけたとき、画面の右上に小さなアイコンが目に入った。
「室内カメラ:ON」
「……え?」
インターホンのモニターに、そんな表示が出たのを見たのは初めてだった。
もう一度巻き戻して再生すると、やっぱり同じタイミングでアイコンが点灯する。
管理会社から、そんな機能の話は聞いていない。
首をかしげながら、設定画面を開こうとしたときだった。
履歴の一番下に、見覚えのない項目が増えていることに気づいた。
「室内映像 02:13」
私は息を詰めた。
指が震えながらも、その項目に触れる。
画面が切り替わり、見慣れた光景が映し出された。
私の部屋の中だ。
玄関のドア、靴箱、キッチン、テーブル、ベッド。
撮影位置は、玄関のほうを向いた反対側――つまり、私の背後あたりからになっている。
「……は?」
思わず声が漏れた。
そんなところに、カメラなんてない。
映像は、ほんの五秒ほどだった。
玄関のドアが、静かにフレームの中心に収まっている。
ドアスコープの位置だけが、黒くもないのに妙に穴のように見えた。
次の瞬間、ドアの向こう側から、かすかな音がした。
「カチャ」
鍵が回る音に似ている。でもドアは開かない。
それから、ゆっくりとチェーンが揺れた。
誰かが外側から、ほんの少しだけ扉を押しているように。
がちゃん、とチェーンが突っ張る鈍い音。
それで映像は途切れた。
私はしばらく固まっていた。
だれが、どこから、この映像を撮ったのか。
どうして「室内カメラ」なんて表示が出るのか。
考えているうちに、あることに気がついた。
画面の左上に小さく、「録画中」の文字が出ている。
現在進行形で、どこか別の映像を録っているということだ。
慌てて「戻る」ボタンを押すと、最新の履歴の一番上に、新しい項目が追加されていた。
「室内映像 18:42」
時刻を見て、ぞっとした。
今まさに、私がインターホンをいじっている、この瞬間の時間だ。
私は反射的に、その項目をタップした。
数秒のタイムラグのあとに再生された映像は、さっきと同じ構図だった。
玄関とは反対側から、部屋の全体を見渡すようなアングル。
私のうしろ姿が、椅子に座って受話器を握っている。
首から少しだけはみ出した髪の毛や、着ているパーカーの色まで、はっきりと映っている。
私は、固まったまま、自分の後頭部を眺めることになった。
そのとき、画面の中で、私の後ろに影が差した。
3 / 4
玄関のほうからではない。
ベッドと壁の隙間、家具を動かさないと人が入れないような狭いスペースから、何かがにじみ出るように伸びてくる。
黒くて細いもの。
最初は、また指かと思った。
でも、それは床からではなく、天井のほうから降りてきている。
頭のない、髪の毛だけの束のようなものが、ゆっくりと私の肩のあたりまで垂れ下がってくる。
画面の中の私は、それに気づいていないらしく、じっとインターホンの受話器を見つめている。
ふわり、と髪の束が揺れた。
その毛先が、私の後頭部に触れそうになったところで、映像はふっと途切れた。
モニターが真っ暗になる。
部屋の静けさが、一気に耳に戻ってきた。
私は振り向けなかった。
椅子に座ったまま、息を殺して、背中越しの空気の重さを感じていた。
天井から何かが垂れている気がする。
首筋に、誰かの息のような、生ぬるいものが触れた気がする。
でも、振り返ってはいけないような気がした。
ゆっくりと、手だけを動かして、受話器の電源ボタンを押す。
モニターが完全に消える。
代わりに、玄関のほうから小さな音がした。
「ピンポーン」
インターホンのチャイムが、もう一度鳴った。
今度は、モニターをつける勇気はなかった。
……あなたの部屋のインターホンにも、録画機能が付いているなら、一度だけ確認してみてほしい。
誰も来た覚えのない深夜の時刻に、履歴が残っていないか。
もし「室内映像」という項目が増えていたら――その再生ボタンを押す前に、まずは自分のうしろを、よく見たほうがいい。
4 / 4