
秋が終わりを告げて本格的な冬の寒さが押し寄せ、すっかり日が落ちるのも早くなってきた、11月下旬の放課後のことだ。
私は体育の授業の忘れ物を取りに、一人で旧校舎の最果てにある、薄暗く静まり返った武道場の重い扉を開けた。
窓の外からは冬枯れの冷たい風が吹き込んでおり、広い畳敷きの部屋は、しんと冷え切った陰鬱な空気に満ちていた。
誰もいない暗がりの畳の上を歩き、目的の場所へ向かおうとした、まさにその瞬間だった。
ザザッ……ザザッ……
誰もいないはずの後方から、裸足で畳を強く擦るような、不気味な「すり足の音」が確実にこちらへ近づいてくる音が響いた。
驚愕して勢いよく振り返ったが、そこには誰もいない。しかし、違和感を覚えて足元に目を落とした瞬間、全身の血の気が引いた。
敷き詰められた緑色の畳の隙間という隙間から、まるで生き物のように蠢く、大量の「白い髪の毛」がじわじわと這い出てきていたのだ。
それは恐ろしいスピードで私の足首からふくらはぎへと絡みつき、がんじがらめに縛り上げてきた。髪の毛が制服を突き抜けて肌に触れた瞬間、私の肉体の水分と生気がリアルタイムで根こそぎ吸い取られていくのが分かった。
全身が老人のように急激に衰弱し、鉛のように重くなって一歩も動けなくなる。
これまで数々の地獄を潜り抜けてきた経験から、脳裏に最悪のルールが弾け飛んだ。
足元を這い上がってくる白い髪の毛を、パニックになって素手で引きちぎろうとしたり、すり足の音に気を取られて後ろを振り返り続けては絶対にダメだ。
もし生気を吸い尽くされれば、その場で肉体が完全に干からびて即死する。
武道場の広大な畳からの侵食を拒絶し、奪われかけた生気を取り戻す、唯一の脱出ルール。
それは、【カバンに入っている『安全ピン(ゼッケン留め用のものなど)』を自分の親指の腹に一度軽く突き当てて痛みを感じてから、そのピンを目の前の畳の目に深く突き刺し、『まだ走り始めてもいない』と心の中で5回強く念じる】ことだけだった。
現在の生々しい「痛み」を刺激にして自分の生命力を呼び覚まし、その現実の楔を怪異の根源である畳へと直接打ち込むしか生き残る道はなかった。
(まだ……走り始めてもいない……ッ!!)
私は急速に遠のいていく意識を必死につなぎ止め、震える手でカバンから陸上用の安全ピンを引っ張り出した。
後日談:
- 私は冷や汗でずぶ濡れになったまま、冬の寒さが染みる武道場の床にへたり込み、激しく荒い呼吸を繰り返していた。 目の前の畳は、ただの古びた青畳としてそこに静かに敷き詰められているだけだった。 【冬枯れの寒さと静寂を利用し、建物の一部である畳を媒介にして生存者の『生気』そのものを物理的に吸い尽くして枯死させようとする、極めて凶悪な呪い】だった。 だけど、あれは絶対に寒さによる足のササクレや立ちくらみなんかじゃない。 あの学校の怪談は、冬の寒さが日常を侵食していく影で、武道場の畳さえも最悪の怪談に変えて、私を抹殺するための怪談を仕掛けた。 次は12月だ。
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