
あいつがそれを口にしたのは、笑い話にできる席じゃなかった。
年度末の監査が終わった日の昼休み、ビルの裏手の非常階段で、煙草も吸わずにただ手すりを握っていた。人に聞かせるというより、自分の中の順序を確かめるみたいに、言葉を一つずつ置いていく話し方だったと、同席していた職員が言っていた。
「時々さ、空調の音が一拍だけ遅れる瞬間があるんだよ。あれが来ると、次に何が起きるか分かる」
場所は、都心の外れにある公文書の収蔵庫だった。窓のないフロアに可動式の書架が並び、紙を守るために温度と湿度が一年中ほぼ同じに保たれている。人間の体温のほうが場違いに感じるような、無機質な冷たさがある建物だ。
彼はそこで資料の整理をしていた。古い台帳、寄贈された個人書簡、映像のリール、図面。価値の大小より、番号と所在が正しいかどうかがすべての世界だ。ひとつでもズレれば、あとから誰かが迷子になる。その責任だけが、淡々と積み重なる仕事だった。
最初の違和感は、音だったらしい。
深夜ではない。昼過ぎの、他部署の足音が廊下に残る時間帯。彼が収蔵庫の端末に向かってバーコードを読み取っていると、背後の送風口から出る風の切れ目が、ほんの少しだけ歪んだ。空調が止まったわけではない。止まりそうで止まらない、耳が勝手に身構える間が一拍だけ挟まる。
その瞬間、可動書架のどれかが、誰も触れていないのに動く音がした。
収蔵庫の書架は、安全のために動作音が分かりやすい。警告灯が点き、低いブザーが鳴り、ゆっくりと動く。なのに、そのとき聞こえたのは、動作が始まる直前の「準備」の音だけだった。機械が息を吸うみたいな、短い唸り。それで終わった。
彼は席を立って見に行った。警告灯は点いていない。通路のどこにも人はいない。書架も動いていない。端末のログにも記録がない。空調だけが、何事もなかったように一定の風量で鳴り続ける。
気のせいだと思った。そうするしかない。収蔵庫は、気のせいを受け流せる人間が向いている。
次に来たのは、数字だった。
翌週、彼は寄贈資料の目録を突き合わせていた。箱の数、封筒の数、写真の枚数。数え間違いが起きやすいところほど、規則は厳しい。彼はいつも通り二重チェックをして、数が合っていることを確認し、端末に入力した。
その日の夕方、別の職員が同じ資料を扱ったとき、端末には「未処理の封筒が一通」と表示された。あり得ない。入力は確定済みで、在庫の変動は履歴に残る。残らない変動は、存在しない。
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